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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第六節 往還と文芸

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好学の人びと

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 華頂禅師 華頂禅師については、禅師十三回忌に際し、その弟子高井悟山・素妙法尼の浄財喜捨により出版(天保十年・1839)された近江日野正明寺住持真寿編『華頂禅師語録』(仏教大学図書館所蔵)に付いた「華頂禅師行由録」により、その略歴を知ることができる。

 華頂(1740-1827、諱文秀、字華頂、別に直鈎)は石部宿藤谷氏に生まれ、どのような事情か「幼にして出塵(出家)の志あり、宝暦四年(1754)十五歳のとき比叡山に入り、方玉律師のもとで教律を修めたが、志すとろあり、宝暦八年春下山して近江日野正明寺の中嶽律師のもとに参禅した。その後伊予の湛堂禅師をはじめ各地にすぐれた師を求め、やがて駿河の白隠禅師のもとに落着くことになった。白隠禅師のもとにあるもとにある三年、白隠禅師の没後正明寺に帰り、周辺の人びとに仏法を説いた。天保十年(1839)正明寺住持真寿が編んだ『華頂禅師仮名法語』(仏教大学図書館所蔵)はこの時期の禅師の法語の一部をまとめたものであろう。農大の臼挽歌になぞらへて仏法を解りやすく説くなど、民衆の教化につとめた。華頂禅師の徳望は広く聞えるところとなり、寛政十二年(1800)一月禅師六十一歳のとき宇治の黄檗山万福寺二十五代住持に迎えられた。住持にあるこ十年、その後富山国泰寺のもとめに応じて、中国臨済宗開祖の法語集「臨済録」を提唱し、民衆の教化を続けた。禅師は文政十年(1827)一月十五日正明寺 で八十八歳の生涯を閉じた。禅師にはきびしさと同時に温かく風雅な一面があり、広く民衆の尊敬をうけたと伝えられている。

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 服部未石亭 
18世紀以降、動植物・鉱物の効用、来歴・産地などについて研究しようとする物産学への関心が高まってきた。江戸の平賀源内、大阪の木村兼葭堂などはその代表的学者である。近江にも岩石を収集し、その性状・来歴・産地に考察を加えた木内石亭(1724-1808)がある。石亭は収集し、あるいは実見した石640種余を九つに分類し説明を加えた『雲根志』を著わしている。その石の中には化石や石器も含まれている。石亭が「弄石の友」として親交のあった人に服部未石亭(1712-1779)がいる。未石亭(通称善七、号確甫)は石部宿の出身であったが、略歴は明らかでなく『雲根志』の記事中に断片的に動向を知れるにすぎない。石亭は近江各地で岩石を採集をしているが、石部宿周辺では宿西入口の山の自然灰、宿北の山中の岩根村常永寺庭のヒノキ化石、宿西出口新道五軒茶屋近くの白亜土の採集は、いづれも未石亭の助力によるものであったであろうか。石部金山の岩窟は周辺の弄石家には奇石採集の格好の場であった。浮名(かるいし)もその一つであるが、宝暦十年(1760)五月窟内で「上のかたより麺のごときもの下る、太き木綿糸のごとく、長さ三十五分或ハ一寸、色白かたし」とされるものを発見し、未石亭が石亭に名を問うたところ、索麺石と答えた。また宿付近の山で松の下を掘り、十文字形の糸巻きのような石を数百箇採集している。糸巻石としているが、加工された

石器を思わせるものである。石亭は平賀源内・木村兼葭堂とも弄石を通じて交流があり、さらに京都・大阪でさかんに催された産物会にも参加し、得られた知見は「未だ石亭にあらず」と年少の石亭を敬慕した未石亭に伝えられ、啓発されるところが多かったと考えられる。埋蔵量は乏しいが各種の鉱物の点在する石部の地として、木内石亭という熱心な弄石家に触発されながら服部未石亭は活躍したといえよう。

 石部の地理的位置からも京都の文化を吸収する条件に恵まれており、京都に遊学した人があったと考えられる。現在確認しうるものは福鳶元厚一人である。元厚は京都で漢方・蘭方両医学を教え、名医の評判が高かった小石元瑞(1784~1849)に入門している。元瑞は医をよくしただけでなく文雅の人としても名が聞え、元厚が元瑞のどの側面について学び、その後どのように活躍したか知れない。