石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


501000000

第一章 近代化への動きと石部

501010000

第一節 地方行政の改革

501010100

廃藩置県と町村行政

501010101
 滋賀県の成立と石部村 明治新政府は、成立後日をおかずして封建制度を打破し、近代統一国家(中央集権国家)の体制を整えるためにさまざまな改革を断行していった。それらの諸改革のうち、本節では地方行政に関係する事柄についてみることにしよう。

 まず、滋賀県の成立と明治初期の町村行政についてみるために、廃藩置県と戸籍法の制定をとりあげる。

 (表45-「滋賀県の成立過程」は掲載できませんので、「新修石部町史(通史編)-500ページ」(湖南市立図書館)をご参照下さい。)

 明治四年(1871)七月、政府は在京56藩知事を招集して藩を廃して県とする旨の詔書を出した。これによって版籍奉還後も続いていた藩は廃止され、中央集権的統一国家の体制づくりが一段と進んだ。この時新たに261の諸藩がそのまま県となり、二年前から県となっていたのを合せて三府(東京・京都・大阪)302県となった。つまり、府藩県の三治の統治形態となった。この後藩の合併は急速に進み一時期3府35県にまで減少したが、明治十年代に福井県や奈良県などが再設置されて今日にほぼ近い三府四十三県となったのは同十一年(1888)のことである。

 滋賀県についてみると、近江国の領有関係は幕藩体制下には複雑に入り組み、蕃の封地だけでも30有余をかぞえ、一村に四・五人の領主が存在することも珍しくなかったという。このため滋賀県の成立には時間を要したが、同五年(1872)九月、今日の滋賀県にほぼ近い輪郭が形成された。その成立過程は表45に示した。

 今日の石部村・東寺村・西寺村が合併して石部村となり、同三十六年(1903)六月一日から町制が施行されて幕末期には領主をそれぞれ異にしていた。甲賀郡もまた「領主の数四十有余を算」し、「其の犬牙錯雑(複雑に入り組み)変遷の甚しき」状態にあった(『甲賀郡志』上巻)。石部村は膳所藩の支配下であったので同四年七月膳所県へ、同年十二月大津県へ編入された。また東寺村は幕府直轄領であったので同元年(1868)四月大津裁判所の管轄となり、同四年閏四月そのまま大津県へ移行した。西寺村は京都伏見に城下を置く淀蕃の支配下にあったので同年七月淀県へ、同年十二月大津県に編入されるという経緯をたどった。

 (「表45 滋賀県の成立過程」は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー500ページ」(湖南市市立図書館)をご参照ください。)

501010102
 戸籍法の制定
 政府は廃藩置県の詔書を前後して、明治四年四月戸籍法を発布した(太政官布告第170号)。戸籍法制定の主旨は、その前文に述べているように国政遂行の基本要件をして、まず「戸数人員ヲ詳ニ」することにあったので、それは本来地方制度と直接に関係するものではない。しかし、方の実施上の必要から全国に区という新しい行政区域を制定し、また戸籍事務を遂行する地方行政機関として戸長・副戸長を創設した(第一則)。このことは、それまで手をつけられていなかった町村行政の改革をもたらし、結果からみれば明治地方制度に大きな影響を与えることとなった。特に、戸長・副戸長がこののちまもなく単なる戸籍吏から「土地人民に関係する事件一切」を担う地方行政機関に転化したことの意義は大きいといわれている(亀掛川浩『明治地方自治制度の成立過程』)。

 ここで町村行政の改革についてみる前に、石部町に残っている戸籍関係係の資料について少し触れておこう。

 明治に入った当初は、人口調査と宗門改を兼ねた旧来の「宗門人別改帳」がなお作成されていた。東寺村に同二年(1869)と同三年(1870)に同村庄屋又四郎らが大津役所に差し出したものが残っている。どちらも幕末からの様式を踏襲して、檀那寺(天台宗十王寺)がまず上段に大きく配され、下段に家族の名前・年齢・家畜の数が書かれていた税制・徴兵制・学制など身分制の撤廃、移動・職業の自由を前提とする新しい諸制度にとっては多くの欠陥を有していた。

 政府は「全国総体の戸籍法」を一斉に実施すべく、同四年(1871)四月戸籍法を発布し、翌五年(1872)二月一日から100日にわたって編成することを決定した。それは完成した同年の干支をとって壬申戸籍と呼ばれているが、石部町でももちろん作成された。たとえば西寺村のそれによると、戸籍法の施行に合わせて同年(1872)二月から始まり同十六年(1883)ごろまでの移動が詳細に書きこまれている。上段に氏神と檀那寺、下段に何番屋敷住という形で住所、戸主の出自(生まれ)、職業・年齢・生年月日が初めに記され、ついで家族の姓名・職業・年齢・父母や妻の出自の記載が続く。この壬申戸籍は、従来の宗門人別改帳を廃止して、士農工商に代わる華族・士族・平民をその居住地において同一戸籍に編成したので、全国の人口と其移動状況が初めて正確に把握された。壬申戸籍は、周知のように封建制度のもとにおける身分差別を温存する制度的基盤を提供するものであった。

501010103
 区戸長制 戸籍法の施行を契機に、政府は区の設置を地方に促すとともに、ほぼそれと平行して地方行政の一元化にも乗り出していった。同年四月公布の太政官布告第117号がそれである。

 一、庄屋・名主・年寄等都テ相廃止、戸長・副戸長ト改称シ、是迄取扱来リ候事務ハ勿論、土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事。

 これによって、本来は戸籍吏として設けられた戸長・副戸長は庄屋など町村役人の職務と権限を引き継ぐこととなり、訴訟以外の「土地人民ニ関係ノ事件ハ一切」処理することとなった。

 滋賀県についてみると、まず区の設置については同五年(1872)二月ごろからその準備が始まり、十月県下12郡に計158の区が定められた。一区の平均11.9町村であったという(井戸庄三「滋賀県における区制と明治6~12年の町村合併」『人文地理』13巻5号)。石部・東寺・西寺の三村は、このとき柑子袋村はじめ11ヶ村(甲西町)とともに10区まであった甲賀郡の第一区に属していた(後頁「第3章第1節」参照)。

 滋賀県は区の設置と前後する同五年(1872)八月、名称の統一をはかるべく庄屋を戸長、年寄を副戸長と改称した(第56号達)。また区の戸長・副戸長については、当分の間総戸長とし(同前)、翌六年(1873)三月に正・副区長とした(第238号達)。

 さらに、同年十一月には、同じ日に区戸長に関する二つの重要な達を公布した。権限の一元化をはかるために、「戸籍ハ固ヨリ土地人民ニ関スル諸事務一切」を区戸長に処理させることとした第1069号達である。これによって、区戸長は町村事務はもちろんのこと、「訴訟事件ニ関スルノ権」を除くその他の国家事務、つまり学区取締(明治五年八月)・徴兵令(同六年一月)・地租改正条例(同年七月)などをも一切処理することとなった。

 二つは、区戸長の選出方法を定めた第1070号達である。政府は、区戸長を置いた当初にはその選出方法にほとんど干渉せず、地方の実情に応じて相当自由に決定することを認めていた。滋賀県では、県令松田道之の下で公選という自治の要素を加味した次のような選出方法を定めていた。

 ① 正副区長の選挙は、その区内町村の正副戸長より入札し、封のまま県庁へ差出す。

 ② 正副区長の選挙は、その町中その村中の小前(小作農)に至るまで入札し、封のまま県庁へ差出す。

 ③ いずれの選挙の場合も、入札者の氏名、押印のほか所有地反別を記載し、開票の公開はしない。

 なお、ここにみられる旧慣のなごりともいうべき諸規定、たとえば県が全面的に任命権を留保したこと、開票は非公開であったこと、および小前が公法上の権利をなお有していたことなどについては、同八年(1875)五月の改正法によってほぼ改められた。以上の区戸長の創設を通して、明治初期における地方行政の改革はひとまず一段落したのである。

501010104
 石部の区戸長 石部・東寺・西寺の三ヶ村の区戸長名について、三新法が施行される明治十年代初めまでをまとめったのが、表46である。史料の制約からすべての区戸長経歴者をあげることができず、また就・退任年月も明らかにできない。たとえば、この時期石部村では吉川小八・竹内吉兵衛・伊地知文三郎らも戸長となっているが、その就任時期ははっきりしない。

 (表46-「石部・東寺・西寺各村の区戸長(明治初期)」は掲載できませんので、「新修石部町史(通史編)」-504、505ページ(湖南市立図書館)をご参照ください。)

 戸長の交代時期である七月(区長は九月)には、さきの第1070号達の定める手順を踏んだ戸長の選出が進められたようである(『小島忠行家文書』「日誌」明治八年八月九日)。ただ、戸長・副戸長と改称された当初は、たとえば山中又(俣)四郎や山本宗七のように庄屋・年寄であった者がそのまま正・副戸長職を引き継ぐ事例が多くみられた。

 戸長の職務は、残されている資料による限り反別取調べや田畑地価等級仕訳など地租関係のそれが圧倒的に多い。また、新政府の下で遂行された学校行政や徴兵関係もかなりみられるが、そのほか水利(水論)・財政も含まれ多岐にわたった。この時期、行政組織(機構)は整っていなかったので、彼らおそらく多忙をきわめたであろう。すでに同八年(1875)八月、石部村でも戸長に「人撰入札」されながらも辞退する事例がみられたが(『同前』)、その一因はこのような戸長の多忙さによるものであったと考えられる。また、戸長は名誉職であったのでその待遇は低く、滋賀県は同七年(1874)九月、月額給料戸長六円、副区長五円(正副区長は十三円と十一円)を基準とするよう定めていた(第1263号達)。

 区戸長となる者は、資質のほかに家柄や財産を兼ね備えた地方名望家であることが重要な資格要件であったことは疑いない。しかし、財産についていえば、必ずしもすべてが村で最上層に位置する土地所有者ではなかったようである。東寺村の戸長経歴者によってみると、同九年一月当時、北村文次郎は同村54戸中二番目の土地所有者(田畑宅地二町四反余)、山元角次郎は同四位(一町八反弱)であったが、吉川傳次郎は同十四位(一町一反余)にとどまっていたのである(『東寺地区共有文書』)。 

 (「表46 石部・東寺・西寺各村の区戸長(明治初期)」は掲載できませんでしたので、「新修石部町史ー通史編ー504ページ」(湖南市市立図書館)をご参照kるださい。)