石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ
  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


501000000

第一章 近代化への動きと石部

501010000

第一節 地方行政の改革

501010200

三新法の制定

501010201
 三新法の制定

 明治十年代に入ると、豪農層を指導者としてあらゆる農民階層が参加した地租改正そのものに反対する一揆はしだいに下火となり、西南諸藩に続出した士族反乱も同十年(1877)の西南戦争を最後に終息した。しかし、ちょうどそのころから、政府は国会の開設を初めとして民主主義的な変革を要求する自由民権運動の台頭に直面することとなった。政府は自由民権運動に対して抑圧する姿勢をとり続けたが、同時にこれを部分的かつ段階的に受容する姿勢をも示した。そして、後者の姿勢は、まず三新法の制定となって現れたのである。

 同十一年(1878)の四月から五月にかけて開かれた第二回地方官会議において、政府は立憲政体を善事樹立する旨の声明を発表するとともに、地方統治機構を再編すべく地方三新法の原案を付議した。ちなみに、この会議には「前」と「現」二人の滋賀県令が出席していた。松田道之と籠手田安定である。松田はこの時、内務大書記官として三新法原案の起草に深くかかわり、また籠手田は、戸長の公選採用や府県会議員選挙権資格を政府原案より拡大するように進歩的な発言を行っていた(『明治史料』第五集)。

 この三新法は第二回地方官会議で審査されたのち、元老院をへて同年七月太政官布告第17-18-19号として公布された。すなわち、「郡区町村編制法」・「地方税規則」である。なお、「府県官職制」(太政官達第32号明治十一年七月)と「区長村会法」(太政官布告第18号明治十三年四月)を含めて、明治十年代の地方制度を三新法体制を呼ばれることが多い。三新法体制をあえて一言で説明すれば、それまでの区制を全廃して、府県―郡区―町村という地方統治機構を創出するものであった。そして、この点で明治二十年(1887)初頭に確立するいわゆる明治地方自治制を準備し、その礎石として画期的な意義をもっていたのである(大石嘉一郎「地方自治」『岩波講座日本歴史』近代第三巻)。

 そこで、地方行政に直接関係する「府県会規則」と「郡区町村編制法」の内容について、その骨子をみておこう。

501010202
 府県会規則 府県会規則の制定によって、明治十二年(1879)四月から全国一斉に府県会が開設された。公選議員をもって組織されたことは後の府県会と同じであるが、その機能や権限は大いに異なり限定された弱小であった。つまり、この時の府県会は、地価割や戸数割など地方税で支弁すべき経費の予算、およびその徴収方法を議することに限られていた。しかも会議の議案はすべて府知事・県令が発し、その議案も府知事・県令の認可を持って初めて効力を有したのである。

 このような狭小な権限に対する唯一の救いは、通常会期中に限り「過半数ノ同議ヲ得タルトキハ」「其府県内ノ利害ニ関スル事件ニ付政府ニ建議」することが認められていたことであろう。そして、この建議に関して、同十四年(1881)の滋賀県会で当時の雰囲気を伝える興味深い事例がみられた。それは、議長を務めていた野口忠蔵(蒲生郡選出)が戸長などの給料および役場諸費を、地方税でなく町村協議費から支弁するよう政府に建言することを提案したものである。その理由は、戸長から行政官吏としての性格を除き、純然たる町村の理事者とするためであるとして、次のように述べていた。

 抑モ町村ハ自然ノ部落ニシテ政権ノ得テ其自治ニ干犯スヘキニアラス……戸長ハ所謂古ヘノ庄屋・名主ニシテ町村ノ理事者タルヘキオリ、然ルニ今半官ノ性質ヲ帯ヒテ町村人民ニ臨ム、抑モ亦謂レナリ……故ニ戸長ハ純然タル町村ノ理事者トナシ、其給料及役場諸費ハ宜シク町村ノ協議費ニ任スヘキ者トス。

 (表47-「3新法下の県会議員有権者数」は掲載できませんので、「新修石部町史(通史編)」ー509ページ(湖南市立図書館)をご参照ください。)

 しかし、この県議案は時期尚早として否決された。それが否決された背景には、建議内容が当時全国に広がっていた町村自治論・自由民権論と相通じるものがあると考えられたからであるという(『滋賀県議会史』第一巻)。自由民権運動といえば、石部村の三大寺専治が一年前の同十三年(1880)九月、国会開設の建白書を元老院に提出していたことも特筆に値するであろう(第一章第三節参照)。

 ところで、府県会議員の選挙は郡区ごとに人口に応じて定員五人以下が選出された(総定員当初64人、のち50~62人。甲賀郡は5人)。選挙権は満二十歳以上の男子でその郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上納める者に、また被選挙権は満二十五歳以上の男子でその府県内に本籍を定め満三年以上の居住し、その府県内での地租10円以上納める者に与えられた。地租五円以上を納める階層は、地価200円以上の土地所有者であり、同十三年ごろの全国平均では田畑六反以上、滋賀県では4.1反以上に相当した(『第一回日本帝国統計年鑑』『滋賀県統計書(明治16年)』)。彼らは、いわゆる中規模の自営農民階層以上に属する限られた人たちであったことは、有権者数によってもしることができる。

表57にみるように、滋賀県、甲賀郡ともに選挙権はおよそ10人強に一人、被選挙権は20人強に一人が有するにすぎなかった。

同十一年(1878)に制定されたこの府県会規則は、井上敬之助が選出されたのが最初である(後頁「第三章第三節」参照)。

 (「表47 三進法下の県会議員有権者数」は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー509ページ」(湖南市市立図書館)をご参照ください。)

501010203
 郡区町村編成法と石部
 郡区町村編制法の規定自体は六ヶ条からなる簡潔な法律であり、その要点は次のようなものであった。

 ① 府県の下に郡区・町村を設ける。

② 右のうち区は、三府(東京・京都・大阪)・五港(横浜・神戸・長崎・新潟・函館)・その他人民幅輳の(人口密度の高い)地に置く。この時から、都市が郡部と行政上区別されることになった。

③ 郡に郡長を置く(ただし、郡会はまだ設置されていない)。

④ 町村ごとに戸長一人を置く。やむをえない場合は、数町村に一人としてもよい。

 このように、郡区町村編制法は戸籍法制定時に人為的に設けた区を全廃して、前代からの町村を再び行政の末端に位置づけた。政治は国家委任事務を能率よく処理してゆく上で区制は支障があると判断し、町村にそれを委ねることにしたのである。他方、政治は区長村会法を制定し、府県と郡の監督の下に町村に「自治」を認める方針を明らかにした。国家事業を町村の負担において強力に推し進めていくためには、長村民の同意と支持を必要としたからである。

 しかし、この二つの政策は明らかに抵触しあう面をもっていた。町村「自治」の観点からすれば、町村は小規模で自然村に近いことが望まれたし、そのことによって共同体秩序や隣保共存の精神を維持・発展することも期待されたのである。しかし、行政の円滑な遂行や学校・徴兵あるいは土木といった国家事業を負担する観点からは、町村規模はある程度大きく財政力もあることが要請されたのである。この矛盾はまもなく顕在化するところとなり、山県有朋はいじめ政府首脳はこののち10年間この問題の解決に頭を悩まし続けることとなった(後頁「第三章第一節」参照)。

 滋賀県では、区制を採用していた時期も町村を行政の末端に位置づけてきた。町村を活用しないで行政を遂行するのは困難であることを、滋賀県は正当に認識していたのである。この点で政府よりも先見の明があったといえよう。しかし、町村が直面していたさきの状況は、滋賀県下においてもまったく同じであった(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。

 郡区町村編制法は、さきに触れたように一町村一戸長を原則とした。滋賀県でもこの方針を正則としたが、「小町村アリ前途ノ不弁ナル」ときは数町村一戸長制(連合戸長制)を例外的に認めた(明治十一年八月、「本県郡制施行ノ綱目案」)。石部村は引き続き単独で一戸長制を採ったが、東寺村と西寺村は同十二年九月中旬から十二月初旬の時期に連合戸長制へ移行したと思われる。というのは、西寺村ではこの時期に戸長の交代が行われたが、新戸長は東寺村戸長の吉川傳次郎が兼務することになったからである(『西寺地区共有文書』)。もっとも、『甲賀郡志』(上巻)が同十八年(1885)七月以前に「便宜上数村連合して戸長役場を置きたくるもの」としてあげている郡内四件の事例には、この両村は含まれていない。しかし、やはり『西寺地区共有文書』にこののちも東・西寺村戸長(同十六年十月三十日)、東西連合戸長(同年十二月五日)、東・西寺村戸長役場(同十七年九月十五日)の呼称がみられるので、両村による連合戸長制は明治拾八年(1885)七月までつづいたと考えておそらく間違いないであろう。なお、同年七月からは、石部・東寺・西寺の三村による連合戸長制へと移行し、戸長役場所轄区域はさらに拡大した(第三章第一節参照)。

なお、戸長選挙については、滋賀県でも当時の政情の不安定を反映してたびたび戸長選挙条例を改正した。また、石部地域に関する史料は断片的にしか残っていないので、ここではそれらの内容を詳しくみることは避け、ごく簡単にとどめたい。

 滋賀県は、さきに触れたように、明治六年十一月に初めて戸長選挙規則を定めたが、その後政府の方針のへんこうによってそれが廃止される(つまり、県令による官選となる)同十七年(1884)五月まで、大きな改正だけでも三回(同八年五月、同十二年五月、同十六年四月)、小改正を含めると計五回行っている。大きな改正点だけを通観すると、選挙権・被選挙権の規定はいずれの改正法もほぼ同じで、両者の権利は共通して次のようであった(()内は八年五月の改正法)。

 ① 満二十歳以上の男子(十六歳以上の戸主)

② その町村内に本籍住居を定め、または一年以上間断なく寄留する者(本県に在住し満一年以上その町村に居住する者)

③ その町村に不動産を所有する者(不動産を所有する者)

 また、県令はいずれの改正法においても任命権を有したが、さらに選挙権や罷免権が認められた場合も合った。概括的にいえば、同十二年五月の改正法は、県令の選定権や罷免権が否定されて本来の公選に最も近い内容を有していた。それに反して、県令が選挙に関与する度合が最も強かったのは、自由民権運動がちょうど高揚していた時期にあたる同十六年(1883)四月の改正法であった。それは、県令の権限を次のように規定していた。

  戸長ハ該町村ニ於テ五名ヲ公選セシメ、当選人ノ内ニ就キ(県令が一名)選抜シテ之ヲ任用ス、時宜ニヨリ別ニ選任スルコトアルベシ(第一条)

 ところで、郡区町村編制法の制定を契機にして、区制は廃止された。しかし、それは行政区としての機能を失っただけにとどまり、区単位のまとまりはこののちも続いた。甲賀郡第一区を構成していた石部村ほか10ヶ村は、「第一区」もしくは「第一組村々」という名称で定期的に連合村会を開き、また連合村費も徴収して、郡長の指導の下に勧業について話し合いを持っていたようである。『西寺地区共有文書』にこれを伝える史料が一件残っている。それは、甲賀郡長田中知邦が明治十八年一月から半年間の「石部村外拾ヶ村(第壱組村々)連合村費」の収支予算を報告したものである(表48参照)。

 連合村会といえば、このほかに「石部村外五十村連合会」や「石部村外百二十三村々会」という甲賀郡全体にわたったものも存在した。『西寺地区共有文書』によると、甲賀郡全体の124ヶ村(この時、甲賀郡にはまだ町は生まれていない)は、戸数に応じてやはり連合村費を負担した(明治十八年度の年額は一戸につき二厘六毛で総戸数13,159戸)。議員は一村につき三人からなる候補者名簿の中から定員20人が選挙で選出された。石部村の山本林助が、同二十一年二月末に石部村外百二十三ヶ村及び蒲生郡上駒月村連合村会議員に当選している(『山本重夫家文書』)。水口村の慶圓寺が会議場で、同二十年(1887)十一月の臨時連合村会では高等科甲賀小学校の新築・移転について話し合われたことが伝えられている。

 村会については、石部村や東寺・西寺両村ではどのようであったかについて知る手がかりは少ない。石部村に同八年八月という比較的早い時期に村会が存在したことを示す珍しい資料がある。それは、滋賀県が石部村々会議員(小島雄作・山本林助)に任命書を交付したものである(写144)。しかし、こののちについては、たとえば滋賀県が初めて町村会規則(甲第38号)を定めた同十二年五月ごろ、石部に村会が存続していたことさえ確認できない。『滋賀県市町村沿革史』(第二巻)も、石部において「明治十二年の区町村会規則の施行状況は明らかでない」と。また、『滋賀県統計書)』(昭和十六年)は、同十六年(1883)末甲賀郡124村中に村会の開設を四村の開設を四村(県下では1,685町村中22町村)確認しているが、その四村に石部は含まれていないようである。

 なお、同十七年五月、政府が区町村会法を前文改正してその設置を義務づけてからは、一挙に開設をみた。滋賀県では同十七年末で1,671町村中1,404町村が、また甲賀郡では124村中84村が町村会を開設した(『滋賀県統計書』(明治十七年))。

 『西寺地区共有文書』にちょうどこの時期の西寺村々会議員の記入された投票用紙(明治十七年九月、写145)と「村会決定表」(同十八年一月)が残っている。後者の内容は、同十八年から五年間村民が倹約すべきことを採り決めたものである。たとえば、

一、正月及盆礼ニ重通物廃止。

一、年己法会親戚一人宛尤モ供養一種壱菜之事、

一、井堀之節ハ総出之事、

など細かく13項目をあげている。当時全国的にみられた村々の疲弊が西寺村にもおよんでいた様子をうかがい知ることができる。

 (表48-「石部村外10ケ村連合村費収支予算(明治18年1月~6月)」は掲載できませんので、「新修石部町史(通史編)-513ページ(湖南市立図書館)をご参照ください。)

最後に、郡制については、滋賀県は明治十二年五月郡役所設置場所をまず布達し(甲第32号)、つづいて県令によって選任が行われたのち同年七月郡役所は開庁した。甲賀郡には水口村に郡役所が設けられ、初代郡長は旧代官の子孫に当たるという多羅尾光弼が務めた。このときの郡制には郡会がなかったので、それが創設される同三十一年までは、国や県の命をうけて町村を監督する官僚機構として機能した。(515)