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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第一章 近代化への動きと石部

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第二節 地租改正

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土地制度と税制の改正

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 改革の意義 明治政府の所要な財源は年貢であったが、それではまかないきれないために、不足分を公債の発行、豪商からの借入金、不換紙幣の発行などによって補っていた。その主要財源の年貢は、米納や時価換算による金納であったから、歳入は米価の変動や作物の豊凶に左右され、きわめて不安定であった。そこで政府は、安定した財源を確保するため、土地制度と税制の改革に着手することにした。当時の地租は経常収入の大部分を占めていた子から、これに注目するのは当然のなりゆきであったといえる。

 地租を新しい体系のものとするには、その前提として全国的な地ならしが必要であった。なぜなら、これまでの地租の賦課やその徴収方法には、幕府や藩によって著しい違いがあったからである。はじめに、明治政府が明治初期にとった土地制度の主要なものをあげてみよう。明治元年(1868)十二月「村々地面ハ、素ヨリ都テ百姓之地タルベシ」とした太政官布告は、近世における領主の領有権を否定したものとして注目される。同四年(1871)九月の田畑勝手作や、同五年(1872)二月の土地永代売買解禁なども、土地制度の大きな変革といえよう。特に後者は寛永二十年(1643)の禁止令から230年ぶりに土地売買の自由が認められたことを意味する。実質的には売買はあったとしても、土地売買が公認されたことの意義は大きいといえよう。

 近代的な地租を体系づけるためには、それぞれの土地の所有者を確認する必要がある。その認定者に地券を交付し、それの保有者を土地所有者と認めることにした。この地券の交付作業は、まず明治四年十二月、東京付下の市街地において行われた。ついで同五年二月、さきの土地売買の自由化にともなう売買譲渡によって、土地を所有した者に地券を交付することが規定された。さらに同年七月から、売買譲渡されない一般の土地についても、その所有者に地券を交付することになった。明治五年が壬申の年であることから、この地券は壬申地券とよばれている。 

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 壬申地券と地引絵図 石部町についての壬申地券交付や地租改正について、それを具体的に示す記録は現在のところみることができない。したがって、滋賀県の布達類からその概要をみることになるが、できるだけ町域に残存する地絵図などの史料を参照したい。

 大蔵省が「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を公布したのは、さきにみたように明治五年(1872)二月二十四日であった。この規則は14条からなっていたが、同年九月四日に第十五条から第四十条まで増補された。滋賀県においては同年の八月に「地券渡方規則」(『滋賀県市町村沿革史』六所収、『小島忠行家文書』)と「地所取扱心得書」(『滋賀県市町村沿革史』)を管下に布達した。翌九月の布達において、管下にこれらの規則・同増補および心得書が配布された一冊で不足する村は書林商社で買い求め、よく検討して実施するようにと、それが正確に施行されることをはかっている。

 さきの規則や心得書の公布にあたって、県達は、田畑山林の所有者に対しては一般地券を渡すので九月二十五日までに願い出ることを指示し、またこの地券は人民の所有地を官が保障するものであること、したがって判別は相違なく正確に書き出すこと、過少の申告が後日判明した場合は厳重な沙汰があり、今後地券のない土地は所有地にならないこと、などが記されている。

 地券交付には各郡に1・2名の地券取調用掛を任命して指導にあたらせたが、各町村においては地券取調大帳の雛形が示され、地券が交付されることになった。壬申地券は発行されなかった県もあるが、滋賀県は早い時期に交付を完了したグループに属している(佐藤甚次郎『明治期作成の地籍図』)。

 壬申地券の交付作業は明治五年で完了したわけではなく、翌年移行にも及んだ。滋賀県の同六年(1873)七月十八日の布達(第678号)は、滋賀郡の区長などに宛てたものであるが、八月二十日までに野帳と地引分間絵図の提出を求めている。石部町内には、大字東寺地区及び石部町役場所蔵の「(東寺村)地券取調総絵図」(縦288.8cm、)のほか、西寺村のものが大字西寺地区に、石部村のものが写しではあるが石部町教育委員会に残されている。

 これらのうち、東寺村の「地券取調総絵図」には、百姓代・副戸長兼戸長の署名捺印がみられ、明治六年三月二十四日の作図となっている。この年月日はさきの日付よりも早いが、壬申地券地引絵図に属するものである。

 滋賀県下の市町村にはこの年次の地引絵図類が多く現存しているが、これは同じ県の布達に基づいて作成されたことを物語るものである。また同図の裏書によると、各町村は県庁に同じ絵図を二部提出し、うち一部を村方に保管することとして返却している。

 同五年(1872)九月作製の「田畑調絵図面」(『山本恭蔵家文書』)や同六年二月調整の「地所取調帳」(『東寺地区共有文書』)などは、壬申地券大帳や地券取調総絵図を作る基礎資料になったと思われる。これらは当時の状況を知る資料をなるが、特に地券取調総絵図は地番・字名のほか、田・畑・薮・除地など、多くの凡例が色で示されているので、明治初期の土地利用状況などを知る上にきわめて貴重な資料となる。

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 地租改正法と調方心得書 滋賀県の壬申地券交付は、さきにふれたように全国的にみても早い時期に行われた。しかし、県下全町村の地券交付が地租改正法の公布されるまでに完了していないことは、『高島町史』に記載される事例などから知れる。したがって、地租改正法の公布は明治六年七月二十八日であるが、その本格的な実施は、後述のようにかなりあとになってからである。

 この地租改正法は①上論、②太政官布告(第272号)、とその別紙である、③地租改正条例、および④地租改正施行規則、⑤地方官心得書からなっている。①では従来の不公平な課税を改め「公平画一」なものにする地租改正法の大綱をのべ、②では地租を地価の100分の3とすること、郡村費などは本税金の3分の1を超過しないこと、などおを規定して石、③では年による農産物の豊凶などによって課税増減しないこと、物品税収入が200万円以上になれば租税は地価の100分の1にすることなどを示し、③・⑤ではその名称の通り、改租の細則と地方官の心得などが記されている。これらのうち、地租の100分の1への軽減処置は実現しなかったが、この地租改正法は、わが国の地租体系の近代化や社会・経済に与えた影響はまことに大きい。

 地租改正法に対応する滋賀県の主要な布達類をみると、
 ① 明治六年十月の「地租改正取調方心得書」、市街地対象の
 ②同七年(1874)二月十三日の「地券発行ニ付地所取扱条例書」、
 ③同年十月二十八日の「地租改正取調方心得書」、
 ④同八年四月十三日の「地租改正取調方人民心得書」、
 ⑤同年八月二十八日の「地租改正ニ付等級調査心得書」(右図)などがある(『法令類纂』)。

 ①の公布は明治六年十月であるが、作成は同年九月二十五日になっている。九月といえば地租改正法が公布されてからわずか二ヶ月後であり、本県の地租改正への対応が、壬申地券交付の場合と同様に、きわめて早かったことを物語っている。②は①の一年後に頒布されたものである。その前文には明治七年の収穫後から同八年(1875)植付けまでの農閑期に実地調査と地価を産出し、野帳と更正地引絵図を差出すよう指示している。

 ④は他府県にみられる「地租改正ニ付人民心得書」に相当するものとも思われるが、地租改正の取り調べの心得疏という点で、④は①と③と同じ性質のものである。各町村の取調終了後の提出物は③では野帳と更正地引絵図であったが、④ではそれに地位等級総計調書が加わっている。④の第四条にはその地位等級取調のことについて、正副戸長・地主がそれぞれ立会い、毎地の収穫の多寡、土地の便不便、地味の厚薄、水旱損の有無を参考に八・九等ないし十等以上にくぶんすること、などの記載がみられる。地価にかかわることはじゅうようであるから、いずれの心得でも取り上げている。

 『石部町役場所蔵文書』や『西寺地区共有文書』、『東寺地区共有文書』の中には、これらの心得書に基ずいて作られたものが少なくない。明治七年の「地券帳」(『東寺地区共有文書』)、同八年の「更正野帳」(『同』)、同八年三月の「実地取調反別根帳」(『同』)、同年六月吉日の「地価等級出来下調帳」(『東寺地区共有文書』)などは、その一部とおもわれる。

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 改租促進への意気込み 滋賀県が最初に「地価等級出来下調方心得」を管内の町村に布達したのは明治六年十月であった。さきにみたように、同七年にも同八年にも同種の心得書を管下に頒布している。このことは、地租改正がなかなか進捗しなかったことを推測させる。『府県地租改正紀要』では滋賀県の地租改正は同七年十一月に着手して同十年九月に終ったと記しているが、県令松田道之の同年一月十一日の県治所見(『滋賀県議会史』)中には、「既ニ去冬着手セリ」の文言がある。県令の着手というには事務的な作業を指示しているのかもしれないが、明治七年十月の心得書および同八年四月の人民心得書における前文の但し書によれば、同六年にも、同七年十月以前にも改組に着手していたことが知られる。

 明治八年二十八日に「地租改ニ付等級調査心得書」を布達したのは、不公平な地位等級にならないようにとの要請によるものであろうが、この時期、まだ改組を完了していない町村の多いことを示しているといえよう。

 同八年九月三日の布達「滋賀県乙第107号」(『滋賀県令籠手田安定資料集』)によれば、芝居をはじめ、狂言・相撲や手踊・物真似などの興行を、改租事業の終了まで中止することを命じている。これは、明治八年段階での地租改正が進捗していない状況を物語るとともに県当局が地租改正の進捗に、いかに神経を使っていたかをうかががわせる。ただ同月十九日の布達では、先日の興行の禁止は遊楽のために臨時に興行する場合であって、神社例祭時などにおける競馬・花火などは、慣習の次第を書状にして申し出れば、取り調べのうえ許可する。としている。

 同九年(1876)三月二十八日の滋賀権令から地租改正事務局総裁への上申書によれば、滋賀県の地租改正は同八・九両年で実施する予定であったが、同八年中に完了するように変更した。そのこともあって1,500ヶ村のうち、約200ヶ村(地租改正調査復命書では300余村)に丈量などの間違いが多くみられた。それらを再調査させているが、降雪の時期でもあるので、その完了を待っては進達の時期を失する。ついてはとりあえず昨年の人民申告反別で報告し、追って整理の帳簿と交換することが願いたい、といったことが記されている。これによっても、県当局が早く完了の手続きをとりたい意向であることがうかがえる。

 右の上申書に対する事務局総裁の指示は不明であるが『滋賀県史料』(内閣文庫)によれば、滋賀県は明治八年より九地租法を廃して新地租法に改正することを、同年七月四日に事務局に伺いすみであったこと、ただし、山地の場合は同十年九月十三日に伺いすみであったことが知られる。さきに『府県地租改正紀要』では改租の終了を同年九月としていることを記したが、この年月は山地の改租の完成した時期とみてよいようである。

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 内務省の地籍帳と地図
 明治六年十一月に内務省が設置されてからは、租税に関しては従来通り大蔵省が所管し、土地の所有権や処理に関しては内務省の管轄となった。そこで内務省は、全国の官民有地のすべてを把握するため、、地籍編纂を企画し、同七年十二月二十八日、、官員をはけんすることを各府県に通知した。しかし、各府県が改租に追われていることを考慮してか、翌八年二月その実施を延期することに決めた。その後、内務省は同九年五月二十三日に、「地籍編製地方官心得書」を府県に通達しており、滋賀県においては同年六月二十日に「地籍編製区戸長心得書」を区戸長に布達した。この地籍編製は地租改正ともかかわっているので、ここに一項を設けておくことにする。

 「地籍編製区戸長心得書」の前文には地籍編製の目的を、全国の土地寸土ももらすこなく、書・図に明記し、外国に対しては国を守るために、国内的には施政百般の基本資料とするためであるとする。地租改正と地籍編製の違いは、前者が課税地を対象とするもの対し、後者は官民有地のすべてを対象とする点にある。しかし、経費の節約のため、耕宅地・山林・原野など、地租改正で段別調査したものはそれを登録し、河溝・道路・丘陵・山岳など、未調査のものを今般村方で調査することとした(第三条)。

 地図(地路編製地籍地図)に関しては、凡例において「一村全地ノ絵図ヲ製シ」とあるが、一方、「但、地図ハ今般必シモ製スルニ及ハス」とも述べている。地籍編製については明治十七年(1884)六月十日み「地籍編製土地調査手続」を頒布しているが、その前文記すところによれば、同九年の地籍編製書式の布達に基づく調査の進達はあっても、地籍図の調整はなかったとある。同十七年の調査手続には、同年一月一日現在の地籍図を進達すべしとあるが、石部町にハそれに相当する地図は見当らない。

 石部町の地籍編製にかかわる資料としては、同十年八月の「地籍編製道川反別総計簿」(『東寺地区共有文書』)、同十一年の「地籍簿」第一~五号(『石部町教育委員会所蔵文書』)などが現存している。地籍簿には一筆ごとの番号・地名(地目)・方積(面積)・等級・地価・事由・字名・地籍(官民有の別)・所有者が表示されており、当時の土地利用、土地所有や土地生産力などを知ることができる。これに対応する地籍図があれば、より有効な郷土の歴史・地理の資料となるであろう。