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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第一章 近代化への動きと石部

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第三節 村の財政と政治

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村政の近代化

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 村財政の近代化 明治政府が新しい政策を次々に実施するようになると、村の財政運営にも変化が現われてくる。江戸幕府の崩壊した慶応三年(1867)東寺村は、表49に示したように、米七石七斗、銀26貫709匁5分の村小人用を支出していた。支出はすべて銀払いで行われ、米七石七斗には銀2貫126匁、銭51貫文には銀56匁一分があてられている。庄屋や年寄らの給料、用水溜池普請費・村祈祷費・寺社普請費などの支出費目が見られるが、東海道石部宿に隣接するという同村の地理的環境から、助郷費および石部宿往来場清掃賃が、支出の大半を占めていることが目につく。幕末には世情の緊迫を反映して、人々の往来が各段に増加した。それにしたがって東寺村の助郷費などの負担も飛躍的に大きくなったと思われる。これに対して、年貢関係費は、「小物成・高掛り・口米等都て免定ニ載候類小人用ニ載申間敷事」とされたため、案外小額である(「慶応三夘年村小人用帳」『東寺地区共有文書』)。村小人用は、主に高割(村内の高持百姓に応じて賦課する方法)で徴収された。

 明治維新後しばらくは従来のままであった村の財政運営は、明治五年(1872)の大区小区制成立以降大きな変化をみせるようになる。一般的には、旧年貢関係費や助郷費のような封建制下の費目が姿を消し、代わって区戸長の給料など区関係費・地券調査費・徴兵該当者調査費・学校関係費などが支出費目にあがってくる。なお、用水溜池普請費をはじめとする村落共同体の維持に必要な費用は、従来と同様に支出しなければならなかった。史料の制約により当時期の石部地域における村財政の内容を具体的に明らかにしえないが、明治十年(1877)に西寺村は、学校諸入費81円85銭余と同保護役給料6円を支出している(「黌勘定目録」『東寺地区共有文書』)。同年ごろの物価水準では正米一石が5円50銭程度であるから、当時の学校が村に与えた財政負担の大きさがうかがわれる。西寺村では、支出額のうち61円33銭を松茸山からの収入や篤志金などによって負担したが、(「同前」)、残りは村民に賦課されたようである。

 村の財政運営は、同十一年(1878)七月に三新法のひとつの「地方税規則」が公布されると、より近代的なものになってくる。「地方税規則」は、前文七ヶ条からなり、それまで府県税・民費の名で徴収されていた府県費・区費が地方税に統一された。税源は地租割(地租五分の一内付加税)、営業税並雑種税、戸数割によると定められ、かつ地方税支弁費目も警察費、河港・道路・堤防・橋梁の修繕費、府県会議費、学校関係費、勧業費、郡区吏員および戸長以下の給料などに限られた。さらに、「各町村限及区限ノ入費ハ、其区内町村人民ノ協議ニ任セ、地方税ヲ以テ支弁スルノ限ニアラス」とも決められた(『法令全書』)。こうして区町村財政の自治的性格が、法律上確立することになったのである。

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 村会の設立
 江戸時代には財政運営をはじめとする村の自治に関する事項は、高持百姓による村の自治に関する事項は、高持百姓による寄合の協議を経て執行された。しかし、明治維新後旧慣を無視した急激な近代化政策が実施されると、寄合の機能が低下あるいは停止して、村の中に不協和音が生じる事態も発生したようである。そこで滋賀県は、明治九年(1876)十月に「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」を制定して、審議機関としての総代制を導入し、金殻公借共有物取扱などの財政行為の実施には、不動産所有者の60%以上の賛成が必要と定めている。


 石部地域における村会の設立に関しては不明な点が多いが、明治八年(1875)八月二十七日に石部村の小島雄作と山本林助が、滋賀県から村会議員任命書の交付をうけている(『小島忠行家文書』、『山本重夫家文書』)。また、同年十月二十一日付で石部村村会議員青木茂平が、議長三大寺専治に「村法改正議題順序建白」を提出して、正副戸長の職務、村方助成・貧民養育・学校のほか、冠婚葬祭・村内の休日などに関する協議を求めている(表50参照)。『小島忠行家文書』の中の、明治十年六月末から七月末にかけての「村会議院決定簿」によれば、前年度の決算方法について取り決めたうえ、学校建設、新村総代の選出、戸別等級更正、用水路の開設など14項目の議題を協議し決定している。さらに、同十年十一月十七日に、石部村戸長役場から小島雄作へ出された「村会議院別紙之通本日決定ニ相成申候条、御苦労様なから村法改正主法係り兼幹事役御勤メ被成下候様、此段御依頼申上候也」という史料も見られる(『同前』)。当時期の村会の議員数や選出方法などは明らかでないが、これらの史料をみると、江戸時代の村寄合から近代的な議会に過渡的性格をもったものだったと思われる。

 明治十三年(1880)四月政府は、「区町村会法」を公布して、全国的に統一的な区町村の導入を図った。ところが滋賀県では、前年五月に第一回県会の審議を経て、「町村会規則」を定めている(七月には内務省の支持を受けて条項を、一部改正した新規則を制定)。それによれば、町村会は一町村もしくは数町村連合して開設し、①協議費で支弁する経費、②地方税の中の戸数割課税率、③金殻公借・共有物取扱・土木起功、④凶荒予備、⑤小学校、⑥町村内取締が、議定の範囲とされた。選挙・被選挙権者は、一年以上当該村に居住し、不動産を所有する二十歳以上の男子となっている。

 しかし、議決事項は戸長―郡長―県令の順序で報告され、かつ認可を受けることが必要であった。そのうえ、滋賀県は各町村に開設を義務づけたのではなく、適宜開設せよとの方針をとったため、明治十六年までに県下1,685町村中わずか22町村にしか開設されていない。甲賀郡では124村のうち四村である。(『滋賀県統計書』明治十六年)。町村会の開設は翌年から急増し、同十八年になると県下1,673町村のうち1,570町村、甲賀郡では124村すべてに開設されている(『同前』明治十八年)。

 こうして、一応民意を反映した村の行政運営が行われるようになった。同十八年度の石部・東寺・西寺村連合村会は、収入197円3銭、支出223円38銭の予算案を議決している(表51参照)。収入に対する三村の負担額は、石部村―155円余、東寺村・西寺村―各20円余と決められた(「明治十八年度石部村外二ヶ村連合会決議録」『西寺地区共有文書』)。