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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第一章 近代化への動きと石部

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第三節 村の財政と政治

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松方デフレの村

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 松方デフレ 明治十年代は、「松方デフレ」に起因する深刻な不況が農村を襲った時期でもあった。「松方デフレ」とは同十四年(1881)十月大蔵卿に就任した松方正義が実施した財政政策のことで、西南戦争や国際収支の悪化による国家財政の危機的状況を打開するために、増税および国政費用の地方財政への転化が図られた。具体的には各種の税の新設や税率の大幅引上げ、府県庁舎修繕費・府県監獄費などの地方税支弁費目への変更、府県土木費・区町村教育費に対する国庫補助金の廃止といった処置がとられている。また、激しいデフレーションの進行によって、農産物の価格が大きく下落した。

 そこで、各府県は、新たな財源を地方税の増微に求めることになった。表52に同十三年度から十九年度までの滋賀県の地方税収入を示したが、同十四年以降の大幅な様子がはっきりうかがえる。内容をみると、税率が地租五分の一以内に引き上げられた地租割よりも、戸数割の増加が著しい。

 「松方デフレ」の進行にともなって、税金の滞在者が増加し、公売や身代限りの処分を受けて、土地を失う農民が続出するようになった。表53は、明治十五年から十九年までの、県内および甲賀郡における国税帯納者と金額、県会議員選挙権者・被選挙権者数を記したものである。明治十六・十七年の国税滞納者と金額の急激な増加には、水害や旱害の影響も考慮しなければならないが、「松方デフレ」の進行が最大の要因であったと考えられる。地租五円以上納入を資格とする県会議員選挙者は連年減少しており、かつ同10円以上納入が必要な被選挙権者も漸減傾向にある。甲賀郡では、選挙権者の減少は県下全体とほぼ同様の傾向を示すが、被選挙権者の減少率は低い。このことは、甲賀郡においても「松方デフレ」の進行が、中下層農民に一層大きな打撃を与えたといえるであろう。史料の制約から石部地域における土地公売処分の実態を明らかにしえないが、『東寺地区共有文書』の中に、同十九年十一月「宅地租等未納」のために公売処分を受けた者の名前が記されている。

 「松方デフレ」による生活の窮乏が進む中で、自衛手段を講ずる動きが現われてくるようになった。西寺村では同十八年から五年間の村民の生活倹約事項を定めておる。主なものをみてみよう。『旧習ニ正月ハ内祝ヒ之事』、「出産祝ヒ相発(廃)シ候事」、「婚礼之節旧例ニ依リ嫁呼ビ若中ヘ直料ト唱ヘ差シ出sる事ヲ発(廃)」、「出産祝ヒ相発(廃)シ候事」、「婚礼之節旧例ニ依リ嫁呼ビ若中ヘ直料ト唱ヘ差シ出スル事ヲ発(廃)」、「正月及婚礼ニ重通物廃」、「死亡埋葬之節僧侶、上等三人、中等二人、下等壱人、盛物壱対最(尤)モ生花ニ限ル、但シ其節ハ禁酒、就テハ逮夜供養無之事、「年忌法会親戚壱人宛、尤モ供養一種壱菜之事」などである(「明治十八年一月ヨリ村会決定表」『西寺地区共有文書』)。 

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 安民米制度の創設
 右に述べたような状況の中で、小作人など貧農層の生活経済に大きな役割を果たしたのが安民米制度である。創設者の服部善七は、石部村に生まれ、十三歳の時に神崎郡五個荘の豪商外村家に奉公、のち同家の主幹となった人で、学校の設立をはじめ各種の公共事業にも多大な援助を行って、明治十六年十月に没している。安民米制度は、明治十三年(1880)に創設された。服部善七が玄米165俵、藤谷治右衛門が同10俵、村内有志者が同25俵を拠出して、服部が寄贈した土蔵に蓄えておき、稲の植付時に飯米不足で悩む者に、一戸一俵の割合で貸し付ける制度である。貸し付けは毎年五月に行われ、十二月に回収される。回収の際に得た利子は積立てておき、学校の修繕費用などに使用された。安民米制度は、文化三年(1806)膳所藩が定めた安民貯蓄法にならったものといわれており、昭和十六年(1941)まで存続した。

 服部善七の創設した安民米制度は、周辺の村からも高い評価を受けた。『江越日報』明治十四年十月十四日号は、次のように報じている。

  近江甲賀郡石部村平民服部善七は、名に負はぬ大慈善家にして、近郷誰れ壹人知らぬ者とて無く、仏々と呼做せしが、氏は近来物価騰貴に際し、貧民の困苦を痛く憐み、好き方法もあらば是を救わん者と一策を案じ、我日常の食料及び他の入費を節減し、是を与へは幾分かの補助にならん者とて、此程米66石と之を蓄ふ土蔵一ヶ所迄を添へ(米代価660円、土蔵の価100円)差出しが、早くも其筋の聞処となり、銀杯三重壱組を賞賜されたり

なお、明治三十五年(1902)には、松籟山の山腹に、服部善七の功績をたたえた紀恩碑が建てられている(写151)