石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


501000000

第一章 近代化への動きと石部

501030000

第三節 村の財政と政治

501030300

三大寺専治の国会開設建白

501030301
 自由民権と甲賀郡 有司専制政治の打破・国会開設を目標に掲げた自由民権運動は、明治七年(1874)一月板垣退助らが、「民撰議員設立建白書」を政府に提出したのを契機に始まり、明治十年代に入って大きな効用をみせた。当初士族が運動の中心であったが次第に豪農層などにも広がっていった。

 滋賀県では明治十三年(1880)ごろから自由民権運動が活発になり、同年117回、翌十四年には76回の政談演説会が開かれている。同十三年七・八月には自由民権運動最高の理論家植木枝盛が彦根と草津を遊説したが、中でも草津での演説会は盛況を呈した。また、明治十四年度滋賀県会における、府県監獄費の地方税支出否決という事態も、県内の自由民権運動の高揚を背景にしたものであった。同十五年になると、大津自由党と湖北に滋賀県自由党が結成されている。

 このような中で、甲賀郡にも自由民権運動の波が及んできた。同十三年十一月東京で開催された第二回国会期同盟大会の参加者の中に、甲賀郡水口村30名総代青山薫という名前を、湖東・湖北の四郡有志160名総代藤公治・代木孝内の名とともに見ることができる(『自由党史』)。青山薫は大坂府の出身で、同年八月の蒲生郡八幡町(近江八幡市)における政談演説会で演説するなどの活動を、滋賀県内で行っていた(『滋賀日報』明治十三年八月二十四日号)。こうした中で、自由民権運動の趣旨に共鳴した水口村の人々が、青山に総代の役割を託したのであろう。また、明治十四年度滋賀県会で活躍した林田藤九郎は、甲賀郡選出の議員であり、どう十四年十一月十五日京都で開かれた憲法草案の討議した関西府県議員懇親会に出席し、かつ同年十二月四日彦根で開かれた代二回近江自由大懇談会には幹事として名を連ねている(『京都新報』同年同月二十五日)。さらに、『日本立憲政党新聞』同十五年二月三日号には、膳所(大津市)在住の高田義甫が、滋賀・栗太・野洲・甲賀郡の有志とともに、自由主義政党結成に尽力中との記事もみられる。

 ところで、『京都新報』同年二月十日号に、次のような記事が見られる。甲賀郡長田中知邦が、「向日該郡自由団結会」に出席して、「我こそは目下郡長の地位にありて、稍々官権主義を主張すべき筈なれど、素と我が精神ハ自由主義あるを以て、殊更ら今日この席に輿かりて諸君に同意を表せり」と述べたというものである。もちろん田中知邦はこの記事の内容を強く否定しているし(『同前』明治十五年二月十七日号)、郡長に対する県の規制の強さからみても誤報だったといえよう。甲賀郡内での民県政社の存在も、現在のところ確認されていない。ただ、このような風聞は、甲賀郡内において自由民権思想がある程度の広がりをもっていたことを示しているのではないだろうか。前野村・市場村・大沢村(以上、土山町)などにおいて、毎夜法律研究会が開かれているとの記事もみられる(『京都滋賀新報』明治十六年二月十四日号)。

 自由民権運動は、明治十七年(1884)の自由党解党を契機に一時期頓挫するが、明治二十年代に入り帝国議会の開設が間近に迫ってくると、大同団結運動となって、再び活発化する。滋賀県でも同二十二年九月草津に湖東苦楽府が設立されたのをはじめ、政治結社の結成が相次いだ。さらに、同二十三年四月大津交道館で近江自由大懇親会が、板垣退助を招いて開催されている。

 甲賀郡内で自由民権運動の趣旨に共鳴した人々の中には、これからの活動に積極的に参加した者も少なからずいたであろう。後年滋賀県の政界で大きな力を振るうようななる石部村の井上敬之助は、「同志とともに、特に県下の青壮年層に呼びかけて同党(板垣退助が再興した愛国公党―筆者注)の主義綱領を宣伝し、自由民権思想を熱舌に托して鼓吹」したと、彼の伝記に記されている(木村緑生編著『井上敬之助』)。また、明治二十七年八月草津で開かれた、二年前に亡くなった植木枝盛の追悼会には、甲賀郡から七人の参加者があったことが確認できる(『草津市史』第三巻)。

 同二十三年七月に実施された第一回衆議院議員選挙において、甲賀郡は栗太・野洲郡とともに、滋賀県第二区となった。第二区では激戦の結果、湖東苦楽府幹事山崎友親は、五人の滋賀県選出議員の中で、唯一の民権派議員であった。

501030302
 三大寺専治の建白
 自由民権運動の高揚にともなって、全国各地から多くの国会開設建白書や請願書が、提出された。その動きは明治十三年(1880)にピークを迎えるが、同年の滋賀県関係者による建白書は少なくとも三点を数えることができる(他に原文未確認のもの二点あり)。このうちの一点が甲賀郡石部村の三大寺專治の手になるものであり、他は東京寄留の士族川上左右と栗太郡片岡村(草津市)の片岡伍三郎らが提出した建白書であった。

 三大寺專治は、嘉永二年(1849)三月十五日に石部村の植村仁左衛門の五男として生まれ、幼名は信太郎と称した。成長して養父を助け本陣の業務に携わったが、明治維新を機に廃業。その後石部村戸長を経て、明治七年八月甲賀郡第一区長になり、同十八年の連合戸長役場制度実施の際には、初代の石部村外二ヶ村連合戸長に就任している。特に学校教育の振興に熱心であり、道路や野洲川・落合川の堤防修築こうじにも資材を投じて、県令籠手田安定の厚い信任を受けたといわれている。公務退職後は運送業・新聞業・活版業などを営み、石部農会の事業にも関係して、大正十一年(1922)三月二十七日に死去した(「三大寺專治履歴」『三大寺光家文書』ほか)。

 三大寺專治の建白書は、明治十三年九月三十日付で、「謹而奉建言上表」と題し、元老院(政府の立法諮問機関)に提出された。原文は国立構文館に保存されている。建白書の概略は以下の通りである。

 まず、「明治新政ノ初メ主上(天皇のこと―筆者注)親シク五条ノ聖誓ヲ立テ玉フ、其一ニ曰広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ(中略)等ト、宸誓ノ鴻旨実ニ蒼生無窮ノ大幸福ナリ」などと記して、明治維新の改革を高く評価したのち、「客来爾来一ニモ国会二ニモ開設ト鳴声ヲ顕スヲ見聞ス、我国遅速共開設セザル可カラザル国会ナルコトハ、野夫モ信シテ疑ヲ容レザル所也」と国会開設の必然性を強調している。だが一方で、「偶然国会論起リシヨリ以来、ソノ開設ヲ我政府ヘ促迫スルコト屢也ト見ユ、然レドモ政府之ヲ速ニ開立シ玉ハザルハ必ス深監明決アルベシト雖モ、乍恐野生等モ方今ノ形況ヲ愚察スルニ、国会時機不至ノ開設アリテハ、国家ノ災害ヲ招クニ斉シカラン」とも述べている。すなわち、三大寺專治は、他の多くの多くの建白書や請願書とは異なって、国会の早期開設を求めたのではなかった。

 「僅ニ地方税出納ノ一部ヲ議スル県会ノ如キスラ、事理ニ疎ク公議輿論ノ主意ヲ弁ヘザル議員」が存在する状況下において、「国事ヲ議スルコト」は到底無理であるというのが最大の理由であった。また、即時に国会が開設された場合、華士族の「禄券公債廃消ノ論出ルコト必定」であるが、その際には「無産士族の反発を招き、「国難茲ニ生セン」との指摘も見られる。そこで、三大寺專治は、「暫ク時機を待して、賢明当任各君何カ今ヨリ良法ヲ諸置アリテ、数年官途ニ熟達ノ各君ト、平民学業ニ進歩シ政務上ニ熟心ニ者トヲ併セテ撰挙セル時機ニ望ミ、国会開設」すべきであるとの漸進論を提起したのであった。

 三大寺專治の建白書は、この時期の県会に対する批判勢力を強くもつとともに、籠手田県令の信任を受けた行政実務担当者としての政治的立場を色濃く反映したものと思われる。なお、国会の構成、たとえば一院制か二院制かといった問題や、憲法などに関してはまったく言及されていない。