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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 学校設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第一章 近代化への動きと石部

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第四節 生活の変化

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風俗の矯正

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 風俗取締盟約
 文明開化にともなう新しい文物・風俗・制度の流入は、村民の学習運動を興隆させるなど、一面において農村に活気を与えたといえる。だが、農村での開化減少はほとんどが豪農層止まりであり、他の多くの農村にとって、文明開化とは従来の生活様式や慣習を抑圧・破壊するものにほかならなかった。このため明治初期には「新政反対」などの要求を掲げた一揆が頻発するが、それが挫折したのちは、「勤勉」「倹約」を骨子とする通俗道徳イデオロギーの実践を通じて、村民の風俗を廃止し、村落の荒廃を防ごうとする動きが大きくなってくる。なお、通俗道徳イデオロギーとは、幕末期に二宮尊徳らの農民指導者が唱え実践したものであった。

 通俗道徳イデオロギーによる風俗矯正の動きの中で、特に大きな眼目となったのが賭博の追放である。明治十年代の新聞には、農村における賭博の蔓延を指摘する生地が多い。たとえば、『京都滋賀新報』同十五年(1882)十一月に十二日号は、「甲賀郡にても賭博の流行甚しと見え、各村の戸長と警察官とが、去る十二日針村(甲西町)の西教寺へ集会して取締の条件を協議し、其筋へ上申の上速に実施することに決したりといふ」と記している。

 このような中で、石部村・東寺村・西寺村をはじめとする水口警察署石部分署管内十三ヶ村の代表者が、同十五年十二月に「風俗取締盟約」を作成した。緒言で、「風俗ノ善ナル者ハ以テ敦厚勤倹ノ美習ヲナシ、不善ナル者ハ浮薄怠惰ノ陋習ヲ長ス、而冫良習ニハ移リ難ク、悪習ニ染易キハ人間ノ通弊ナリ、勉メテ之レヲ善良ニ矯正セズンバアラス、然リ而冫其風俗ヲ傷リ悪習ノ誘発伝播スルモノ一ニシテ足ラズト雖モ、蓋シ賭博ノ所為其媒介ヲナス多キニアル者ノ如シ」と述べ、四節二十四条よりなる具体的な規則を定めている(『東寺地区共有文書』)。

 第一節総則では、この盟約は本籍者・寄留者を問わず、家族全員が遵守すべきものと規定したうえ、違反者とは交際を拒絶し、違約金を徴収するとしている。ただ、交際を拒絶する対象は賭博に関係した者のみに限られ、家族や親族には及ばない。第二節違約例では、違反者の範囲を詳細に定めて、賭博の開帳者・参加者・会場提供者だけでなく、傍観者までも処罰の対象とし、違約金も10円以上30円以下と非常に高い。しかも、処罰の対象は刑事罰をまぬがれた者にも及んでおり、かつ年少者などの賭博類似行為を厳しく取り締まる条項もみられる。さらに、盟約の実を挙げるために取締専務員二人以上を置くこととし、専務長には一村の理事者=戸長をあてている。

 石部村など十三ヶ村の「風俗取締盟約」の底流をなす通俗道徳イデオロギーは、これ以降も形を変えて、日本の農村社会に長く生き続けることになる。

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 八石教会所
 幕末期の農民指導者の一人に、大原幽学がいる。彼は、天保十三年(1843)から下総国香取郡長部村(千葉県干潟町長部)に本拠を置いて、性学という自己の思想を説いて、これに幽学自身の体験を交えて体系化した思想で、各個人分相応の礼の弁えや家族主義道徳の尊重を特徴としている。この性学が明治になって石部地域に入ってくることになる。

 大原幽学の後を継いで性学の二代目教主となった遠藤亮規は、門弟四人を連れて京都へ向かう途中の明治六年(1873)八月二十二日、石部の旅館八幡屋で病死した。門弟たちは石部村字青木ケ上に遠藤亮規の墓を建てるとともに、鈴木利喜太郎・二瓶慎則の二人が墓守として石部にとどまった。鈴木利喜太郎は同十二年、二瓶慎則は同二十五年まで存命したが、その間性学によって村民の教化をはかった。教化を受けた内貴長兵衛は、親の居宅を青木ケ上に移し、「教生庵」と名付けた説教所を設けて家族集会の場とした。続いて、同二十二年(1889)八月には、石部村字丸山に石毛源五郎の主宰する「八石教会所」が設立されて、人々の修業の場となった。八石とは遠藤亮規の出身地下総国長部村の地名である。こうして性学は石部地域に根をおろすことになった。同四十三年(1910)『石部町是』作成の際に、修養会という風俗矯正団体が結成されるが、会則の第一条には「本会ハ大原幽学翁ノ教旨ニ則リ、天理倫常ノ道ヲ攻究実践スルヲ以テ目的トス」(『石部町是』)と記されている。