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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第二章 近代郵便と石部

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第一節 宿駅制度解体への動き

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飛脚と宿駅

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 継飛脚と定飛脚 慶長六年(1601)一月より実施された近世宿駅制度は封建国家の政治・軍事目的のためであり宿駅の任務は公用のための人馬の継立、休泊使節ならびに通信業務であった。

 寛永十年(1633)以降、継飛脚米を給された東海道各駅では、幕府公用の書状及び御用物を宿継で送るため、継飛脚要員の人足を常に準備していた。

 石部宿の継飛脚米は24石4斗7升7合で享和三年(1803)の記録によると継飛脚は六人であった。

 問屋場が取り扱う書状は、主に老中・京都所司代・大坂城代などが発するもので、丁重な扱いが定められており、江戸・京都間を最急便は約60時間で無賃で継立て、宿駅での重要な任務を担っていた。

 元禄三年(1690)に来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペルはその著『江戸参府旅行日記』の中で宿駅と継飛脚との関係について次のように述べている。

 街道に沿った主な町や村には、旅行者のために領主が設けた駅舎があり、そこでたくさんの馬や荷物運搬人や配達人など、旅行を続けるのに必要なものを、いつでも一定の賃銀で雇うことができ、疲れた馬や記録係が駅逓の事務を執り、……将軍や大名の手紙を運ぶためには、昼も夜もそれを持って走ってゆく男(飛脚)が待機している。この飛脚は、少しの遅れもなく休まずに走り続け、次の宿駅まで手紙を持ってゆく。

 この幕府公用の継飛脚に対し、民間の通信を営業としたのが町飛脚である。天明二年(1782)に幕府より定飛脚としての称を公許された定飛脚(大阪では三度飛脚と称した)問屋は、独自の逓送手段を所有することなく、幕末にいたるまで、宿駅の人馬を定賃銭(定賃銭の元の賃銭は正徳元年(1711)に定められた人足一人1里20文、本馬はその二倍)に準ずる賃銭で利用していた。すなわち近世においては、飛脚=通信と宿駅=交通とは不可分の関係であり、わが国の郵便創業をみる場合には、それと不可分な関係にある宿駅制度をみなければならない。

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 駅逓司の新設と歩み
 島崎藤村の『夜明け前』は、わが国近代交通の夜明け前、つまり、宿駅制度の崩壊過程の史料としても貴重な作品であるが、中山道馬籠宿の問屋・本陣職・庄屋をつとめる主人公青山半蔵の目を通して慶応三年(1867)ごろの状況が次のように書かれている。

 「古い伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役などの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場刎銭の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。……何事も土台から、旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織は先づ変りかけて行きつつあった。」

 青山半蔵は島崎藤村の父がモデルといわれているが、新しい時代の「夜明け前」つまり社会が大きく動くとき、その

動脈であり、土台である交通組織がまず変化すると藤村も指摘している。その変化の過程を概略的にみることにしよう。

 慶応三年十月の大政奉還と、それに続く王政復古の大号令以降の数年間、明治新政府の交通・通信行政は二転三転と試行錯誤を繰り返す。まず、新政府が幕府の制度を踏襲せざるを得なかったのは、根本的な改革の計画がなかったことと、戊辰戦争の軍事輸送や、天皇の東京往復の行幸などには、従来の継立賦役に頼る必要があったからである。江戸時代に宿駅を管理した道中奉行所に代わる管理機関の名称及びその機関の所管役所もその混迷を反映して目まぐるしく変る。慶応四年(1868)閏四月の太政官職制の改定で会計官中に駅逓司が新設され、京都宿駅役所は駅逓役所と改称され駅逓司に属した。十月には駅逓司は東京に移り(京都駅逓司は翌年五月まで存続)、翌明治二年(1869)四月には新設の民部官(七月には民部省)に移り、同四年(1871)七月には大蔵省に移り、八月駅逓寮に昇格、同七年(1874)一月には内務省に移り、同十年(1877)一月には駅逓局に昇格し、同十四年(1881)四月には農商務省所管となり、同十八年(1885)十二月に独立して逓信省となっている。 

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 駅逓司の施策 駅逓司は、親切直後から翌明治二年にかけて宿・助郷一体化による組み替え、100人・100匹の定立人馬の廃止、無賃休泊、無賃公用普通便継立の廃止、人馬定基準賃銭の増額(元賃銭の7.5倍)、人馬遣高の大幅制限、地子免除、問屋・飛脚米の廃止、そして宿は駅に、問屋場は伝馬所と改称し、問屋役人・助郷総代などの役職も廃し、新たに一体化された宿・助郷のうちから入札で伝馬所取締役が選出されることなど施策を進めた。

 石部駅では、その伝馬所取締役に助郷村からは針村の北島半七が選出されたが、宿方からは希望者がなく選考は難航したが、固辞していた本陣職の小島金左衛門が選出され慶応四年七月二十八日、両人は駅逓役所より伝馬所取締役に任命されている。そのほかに取締添役・肝煎・勘定方なども選出された。

 宿・助郷一体化をねらいとする再編成は、宿を助郷との対立および両者とそれ以外の村々との対立を解消して、賦役負担を平等化しょうとする政策であったが、この再編はかえって混迷を深めた。

 一例であるが、新しく石部駅の助郷を命ぜられた村の中には、往復に数日を要する村なども含まれていた。そのひとつ、河内国古市郡古市村(大坂府羽曳野市)の庄屋からは、遠方すぎて百姓が困窮するとの理由で出役免除の嘆願書が、駅逓司に提出されるという状態であった。

 明治元年(1868)、同二年の二年間に石部駅の借金は2,519両に達し、同二年三月に取締役小島は改めて病気を理由に辞任を申し出ている。結局、旧来の定賃銭体系を維持し、賦役量の増大をはかったこの施策は挫折し、駅逓司は同三年(1870)三月駅法の再改正を行った。

 すなわち宿・助郷一体化を廃し、附属助郷、100人の定人足の復活、米35石の支給、駅馬定賃銭を廃止して相対雇いとする。人足定賃銭を再値上げして元賃銭の13倍とする。人足遣高の大幅な制限などがそれである。これらの措置の徹底を図るため東海道各駅には、府藩県官員が指導監督のため派遣され、従来の伝馬取締役は役を免ぜられて元締役となった。石部駅では膳所藩より駅逓掛官員が出張して元締役に小島雄作ら三人が任ぜられている。  

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 陸運会社の設立 明治三年、東京・横浜間の電信が開通し、横浜・神戸間の定期航路の就航、新橋・横浜間の鉄道建設の測量が開始されるなど、電信・海運などの改革がはかられる中で、宿駅制度だけが一時しのぎでとりつくろうような改革では、新しい時代の要請に応じきれないことは明らかになりつつあった。

そこで駅逓司は、駅法再改正がふこくされてからわずか二ヶ月後の同年五月、民部・大蔵両省合議による「宿駅人馬相対継立会社取建之趣意説論振」を決定した。これは従来の公的機関である伝馬所とは別に、私的な継立会社としての陸運会社を設立し、これによって街道の継立の緩和をはかることにした。陸運会社は、政府の強い指導監督の下にあったが、相対賃銭によることは勿論、継立に人馬・駕籠のほか車力輸送も加え、継立距離も駅制に拘束されず、士農工商の区別なく着順にしたがって継立てるなど、従来考えられなかった方法を採用した。

明治四年秋以降の駅逓司官員による熱心な巡回勧誘が功を奏し、各駅に陸運会社が設立される。その結果、同五年(1872)一月、東海道各駅の伝馬所および助郷が廃され、八月末にはその措置は全国に及ばされた。

石部駅の陸運会社が営業するのは同年一月であり、当初は本陣の小島金左衛門・雄作ほか10人が交代で詰めていたが、七月よりは小島雄作が一人で請負っている。こうして慶長六年以降、幕藩体制であった宿駅制度は終焉を迎えるのである。