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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第三章 近代社会の発展と石部

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第四節 教育制度の整備

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初等教育の整備

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 校地移転と補習女学校付設 明治三十三年八月二十日、勅令第344号で小学校令が全面的に改正された。改正された主な点は、尋常小学校を四年とし、高等小学校を二年、三年、または四年とした。将来義務教育を六年とすることに備えて二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することとした。またこの小学校令では、義務教育である高率尋常小学校の授業料は徴収しないことを原則とした。

 同年十月、石部尋常小学校は規模拡大の必要性から後者移転の協議がなされ、移転先を現在の石部小学校(字十禅寺地先)に決定した。新校舎の起工式は同三十四年(1901)四月二十日に行われた。一年後に平屋建て二棟新校舎が落成した。

 同年三月三十一日、阿星尋常小学校を廃して石部尋常小学校の分教場とし、三学年までを収容、四学年からは石部本校へ通学させることになった。同三十三年八月二十一日、教育用のかな字体と漢字の範囲が制限されることになった。当時の教科書は「カタカナ」を先に教えたが、この方法は昭和二十一年まで続いた。また明治三十三年十月、学校医に林甚吉を委嘱し児童の保健衛生の向上をはかった。

 同三十六年四月十三日、国定教科書制度が成立し、どう二十年以来の検定制度が廃止された。なお同三十七年度から修身・国語・書き方・日本歴史・地理、同三十八年度から算術・図画、同四十年度から理科とそれぞれの国定教科書を使用することとなった。

 また、これよりさき同三十三年改正された小学校令により初等教育が整備され、それにともなって全国的に就学率が急上昇し、同傘寿三年81%、同三十八年96%に達した。学制発布以来低かった女子の就学率も同年には93%と高率となった。同年四月二十二日、日露戦争出征軍人がいぜん祝賀会及び戦死者の弔魂祭が挙行され、議員・児童が参列した。

 同四十年(1907)五月十三日、石部実業補習女学校が附設開校された。こらは同三十二年制定の実業学校令の中に実業補習学校の定めがあり、日露戦争後は近代産業の発達、国勢の発展とともに産業教育必要の声が高まった。各市町村では多く小学校に実業補習学校が併置され、小学校長が校長を兼ねた。

 同四十一年四月一日、小学校令改正により義務教育の尋常科が六年となり、高等科が二年となった

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 大正期の小学校
 同四十五年(1912)九月十三日、明治天皇大葬の際には校庭で石部町の遥拝式が挙行された。大正三年(1914)十一月一日、初の大運動会が開催された。

 同四年四月、服部友二郎より奨学金250円が寄附された。同年十月二十九日、大正天皇の御真影が下賜されたので拝戴式、祝賀式を挙行し、校庭に樟を三本記念植樹した。また翌十一月十日、大正天皇後即位大礼につき校庭で祝賀会を挙行し、樟三本を記念植樹し、記念事業として学校基本財産造成の計画が立てられた。

 同七年五月十日、第四十五回創立記念日にあたり全校遠足を実施、高等科一・二年は草津・瀬田を経て石山南郷へ、尋常科三年以上は阿星山登山をした。なた同年七月一日、第一次大戦終結、平和克復につき午後八時から祝意を表して提灯行列をした。また同年十一月、流行性感冒に児童200人以上が罹患したため十一月十日から二週間臨時休校した。

 同十年三月二十三日、児童学芸練習会(発表会)を開催したが、これが当時練習会と呼ばれたもののはじまりである。

 同十四年六月一日、平屋建一棟の増築校舎が完工、落成式をあげた。翌年四月、二宮金次郎の石像が神保りゑより寄贈された。

 同十五年二十五日、大正天皇崩御、昭和と改元され、昭和二年(1927)二月二十五日、校庭で町の遥拝式が行われた。同三年十月、昭和天皇即位の大典を記念して下賜された御真影法案庫が運動場南側の高地に建立された。武田憲次郎・三大寺壮之助・竹内栄蔵・服部友二郎・服部泰吉・竹内善之助・福島宗太郎・小島慰子ら篤志家の寄付金1,880円があてられた。なお御真影と勅語謄本は学校教育の中核として国の諸儀式には必ず拝賀奉読することとされたが、同二十年十二月十七日に総司令部軍指令によって変換した。奉安庫は同二十一年八月二十五日主要部を除去し払下げられた。