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近・現代と石部
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第三章 近代社会の発展と石部
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第四節 教育制度の整備
戦時下の小学校教育
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戦時色の濃い教育方針 昭和十三年(1938)四月、石部小学校では教育方針が次のとおり改めて立案実施されたが、切迫する時局を反映したものであった。
教育方針
教育に関する勅語の御趣旨を奉戴し、小学校第一条に則り本県教育方針を参酌し、以て皇運扶翼に尽くさんとする忠良な大日本国民を陶冶せんとするを以て本校教育の根本方針となす。就中左記七項目は此の根本方針実現の主要綱領にして本校経営の中軸をなすものなり。
一、国体観念を明徴にして日本精神の作興顕揚につとむ。
二、郷土の理解に力を致し、真の郷土愛実現につとむ。
三、公民的教養を重んじ立憲自治の精神陶冶につとむ。
四、各個性の正常なる発達に留意し、人格にまでの充実練磨につとむ。
五、体験を尚び勤労を愛し勤勉力行の態度育成につとむ。
六、科学的精神を涵養し研究的創造的能力の練磨につとむ。
七、健康増進に着眼し体位の向上進展につとむ。
当時、学芸振興奨励のひとつに水曜会が設定され、毎週水曜日役半時間、話し方・読方・唱歌・舞踏などの発表会が開催され、卒業生には楽しい思い出となった。
これよりさき同八年(1934)四月、「小学国語読本」「尋常小学算術」など新編集の小学校国語教科書が使用されることになった。「国語読本」「修身」が色刷りになった最初であり、これまでは単語から文字を教えたのが、ことばから文字を教えることとなった。内容面では時局を反映して国家主義・軍国主義の傾向を一段と強めている。
同十三年、井上善作よりアメリカ製グランドピアノの寄付を受けた。また同十三年四月、国家総動員法が公布されたが、同十五年八月、集団勤労作業として約10日間、雨山で木炭増産奉仕作業に職員・児童が出動して汗を流した。
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石部国民学校 満州事変、日中戦争と戦火の拡大につれ、宣旨教育の色彩が濃くなり、文教行政の上で「国体明徴」「教学刷新」が基本とされた。同十六年三月一日に小学校令を廃止して国民学校令が、また同年三月十四日には小学校令施行規則を廃止して国民学校令施行規則が各々公布され、明治初年以来約70年間親しまれた小学校の姿が消え、昭和十六年四月一日から国民学校と改称され、石部小学校は石部国民学校と改められた。
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国民学校令第一条には「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ目的トス」と定め、初等科二年の八ケ年を義務教育とし、同十九年から実施を予定していたが、戦局激化のためその実現をみないまま終戦を迎えた。
国民学校令時代の教科編成を大きく変革し、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)芸能科(音楽・図画・工作・裁縫)、家事(高等科女子)、実業科(農業・工業・商業または水産業)を設けた。
国民学校への改称の基本理念にいう皇国民の練成にそって、同十七年二月二日、耐寒心身鍛錬運動に参加し、神社参拝駈足を実施した。
同年八月十二日、アメリカ軍機が本土に来襲、警戒警報が発令され石部町にサイレンが鳴りひびいた。児童は防空頭巾をかぶって登校したりするようになる。同年十月から十一月にかけて、児童もまた国策にそって食糧増産の労働に参加して食糧補給につとめたり、割木運搬などの奉仕作業をした。同十八年になって、校庭は野菜園やいも畑に一変し、高学年には食糧増産のための生産教育が課せられ、教室での勉強は少なくなっていた。日常生活に必要な学童ズック靴が学校において特別配給制となって自由に買えなくなり、統制経済下、日常生活必需物資は底をつきはじめた。同年六月、学徒動員体制確立要綱が閣議で決定され、本土防衛のために軍事訓練と勤労動員の徹底がはかられ、十月、教育に関する戦時非常措置方策がだされ、学生の戦時動員が一段と進められた。これらの動きの中で高等科第二学年は陸海軍少年兵や満蒙開拓青少年義勇軍の募集に応じたものもあった。
アメリカ軍の本土空襲が強まり、同十九年九月三日、学童集団疎開によって大阪市立立葉国民学校五・六年生が石部町に疎開し、青年学校裁縫室・石部天理教会・西福寺の三ヶ所に分宿して学校へ通学した。同二十年の正月、当時の町長井上昇のはたらきにより、疎開児童が各家庭に数人ずつ預けられ、久しぶりに家庭の暖かい雰囲気に包まれるひとときがあった。
同年十一月、米軍B29爆撃機で連日石部の10,000m上空を通過するようになり、そのたびに児童は空襲警報とともに学校付近に設営された防空壕に非難する日が多くなり、防空頭巾、モンペ姿で通学することが日常化した。明治十九年八月二十三日勅令第518号で公布された学徒勤労令によって、高等科児童及び教職員は翌年四月から信楽の窯業工場へ軍用品製造のために動員された。
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