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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第四章 戦争と町民の生活

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第一節 昭和初期の社会と生活

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昭和初期の国内情勢

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 昭和の改元と恐慌 大正十五年(1926)十二月二十五日に大正天皇が病没されると、同日に摂政の裕仁親王が践祚された。年号は中国古典にある「百姓昭明、協和万邦」にちなんで、昭和と改元されたのである。

 その後まもなく、金融恐慌がはじまった。これは昭和二年(1927)三月、若槻礼次郎内閣の時に民間銀行の経営悪化が第五十二回帝国議会で明らかになり、その結果預金者は預金の払い戻しを求めて銀行に殺到し、取り付け騒ぎとなったのである。この年に全国で三十七の中小銀行が休業し、さらに倒産に追い込まれる銀行もあった。

 滋賀県下においても近江銀行や栗太銀行が休業発表を行った。そのため取り付け騒ぎが起こり、パニック状態となった。同五年三月には、水口町に拠点をおく甲賀銀行が休業した。

 同二年四月、若槻内閣の総辞職後、田中義一内閣が成立し、金融対策を講じて事態を収拾した。中小銀行は大きな打撃をうける一方で、政府の銀行合併政策が進められ、三井銀行などの五大銀行による金融界の支配体制が確立された。

 その後、同四年十月十四日、アメリカのウォール街の株式大暴落に始まった恐慌は全世界に波及し、世界恐慌となった。生糸や綿製品などの輸出が激減し貿易収支の赤字状態が続いた上に、金解禁政策のため、金が海外に大量に流出した。こうして、日本は昭和恐慌と呼ばれる深刻な恐慌にみまわれ、日本経済は致命的な打撃を受けたのである。この間、大手の資本家たちはカルテル(企業連合)・トラスト(独占的企業合同)を結成し、また、政府も重要産業統制法などを制定し、彼らを保護した。一方、中小企業は操業短縮を余儀なくされたり、倒産企業が続出した。

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 農村の荒廃
 米や繭をはじめとした農産物価格は凶作や恐慌のために大幅に変動した。昭和五年、滋賀県下の米価は大正十四年(1925)のそれの半分に暴落した。また、生糸の輸出が大幅に減少した丈、繭の価格も大きく下落した。農産物による収入は農作物栽培に必要な経費を下回り、昭和七年の農業負債は全国で約55

億円に達した。農村の困窮は著しく、東北地方では、娘の身売りが行われたり、欠食情態の児童が続出した。

 斉藤実内閣は窮迫した農村を救済するための方策を講じた。まず時局匡救事業として、農民を土木関係の事業に雇用し、農家経済を好転させようとした。滋賀県では、同七年からどう九年にかけて、時局匡救関係予算として43万円余を計上し、土木事業にあてた。次に、自力更生運動計画は農業経営を改善・貯蓄の推進を目的とするもので、県下で30ヶ村が選定され、積極的に運動が展開された。

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 社会運動の展開
 生活の困窮により、労働者や農民の社会運動が活発化した。労働者は賃金切り下げや労働強化を強いられ、失業者は増加し続け、同四年九月には、50万人を突破したのである。労働争議は同六年に戦前の最高となり、争議件数は全国で2,456件、参加人員も、154,528人にたっした。大手の繊維会社や工場を中心に長期間にわたる大規模な争議が起こった。その後、中小企業にも波及して、人員整理に対する反対運動が深刻化した。

 滋賀県下でも、減給・休業・工場閉鎖が相ついだ。大津市の帝国製麻株式会社大津工場が閉鎖されたのをはじめ、数多くの工場が休業・閉鎖に追い込まれた。同四年十一月当時、県下の失業者総数は1,253人で、日雇労働者の失業者数も1,205人に及び、県下の労働争議は頻発した。同三年から七年の旭絹織株式会社膳所工場、同五年の東洋レーヨン株式会社滋賀工場・近江帆布株式会社の労働争議は大規模で深刻なものであった。

 農村では、東北・北陸地方などで大規模な小作争議が発生し、同六年には、全国で3,419件に及んだ。主な要求内容は小作料の軽減や農地耕作権の確保などであった。滋賀県下では、昭和に入り小作争議は徐々に増加し、同七年には63件となり、同九年には室戸台風の影響で214件と増大した。甲賀郡内でも、毎年、争議が起こったが、十年にかけて頻発し、20件に及んだ。