石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


504000000

第四章 戦争と町民の生活

504010000

第一節 昭和初期の社会と生活

504010200

町民の社会と生活

504010201
 人口の動態 昭和以前の町人口・戸数をみると、本籍人口の場合、大体、3,000人台を大正十二年(1923)まで推移し、よく十三年に4,000人の大台に達した。現住人口は、2,600~2,900人台となり、現住戸数も560~570戸程度であった。

 さて、昭和元年(1926)から同二十年までの町人口は(但し13、17~19年を欠く)表75に示したように、毎年わずかながら増加した。本籍人口をみると、同二年まで4,000人台、翌三年には4,100人台となり、同四年には約80人ほど増えて4,203人に達し、同九年まで4,200人台を推移した。さらに同十年になると、前年より100人増加して4,300人を突破した。その後、太平洋戦争突入時まで大きな変化はなかった。

 現住人口も、資料のある同十年まで増加傾向を示しているが、微増である。同五年には3,000人台となり、それ以降は、3,000人台にとどまっていた。終戦後には帰郷したりする者があり、二十年に4,369人となっていた。

 戸籍を石部町に置きながら、町外で生活する者は同四年に1,511人と最高になったが、それ以外は1,100人~1,300人程度であった。現住戸数も同九年までは500戸台であったが、翌十年には603戸にまった。同十五年には多少減少したが、同二十年には前述のように戦争の影響で873戸に及んだ。

504010202
 農業の状況
 当時、農業はいうまでもなく、石部町の基幹産業であった。昭和元年には耕地面積が274町7反、農家戸数402戸であった。農家戸数の内訳は図48のように、自作戸数が69戸、自作兼小作戸数が142戸、小作戸数が191戸となっており、小作戸数が全体の50%近くを占めている。また、耕作面積のうち、自作地は20%~30%で、小作地が70%以上に達していた。

 さらに、経営規模別(所有・耕作別)農家戸数についてみると、図49のようになる。まず、所有面積では五反未満の農家が270戸と最もおおく、全体の約70%を占める。一町未満の農家をみると、344戸となり、全体の80%に及んでいることから、農家一とあたりの所有面積が小さいことがわかる。他方、三町歩以上所有すれ農家は19戸あり、10町歩以上の農家も4戸あった。次に、耕作面積をみると、五反以上一町未満の農家が261戸と最も多く、一町未満の経営農業は392戸で全体の97.8%と高くなっている。

 所有面積と耕作面積を対比して、検討を加えよう。五反未満の農家戸数は所有面積別で279戸であるが、耕作面積別でみると131戸しかなく140戸あまり少ない。他方、五反以上一町未満の農家戸数は所有面積別で65戸であるが、耕作面積別では261戸となり、200戸ほど多い。このことから、所有面積五反未満の農家が約五反の地主所有地を小作しているとも想定できる。昭和十年当時の三町歩以上の在住耕作地所有者を示したものが表76である。十一町あまりの耕地を所有していた服部泰吉をはじめ、十三人が、いわゆる在住大地主であった。また、不在地主を称される一町歩以上の不在耕作地所有者は表77に示したように、十二人であり、そのうち、十町歩以上の耕作地所有者は二人いた。耕作地の管理は当然、町民が行っていたが、三大寺作次が十八町歩、山本梅次郎が十町歩もの耕地を管理していた。不在地主は、遠くは東京にもおり、県外に居住する地主は八人に達したのである。

 (「図49-経営規模別(所有・耕作別)農家戸数」と「表76-3町歩以上の在住耕作地所有者」 および「表77-1町歩以上の不在耕作地所有者」は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー642、643ページ」(湖南市市立図書館)でご参照ください。)

504010203
 勤倹規約
 以前から生活の諸側面のうち、とりわけ冠婚葬祭時のもてなしが華美で奢侈になっていた。当時、昭和恐慌下で、政府が緊縮政策をとっていたこともあり、これらの簡素化・簡略化を意図して、規約を各小字単位で制定したのである。同六年二月に谷町で取り決められた規約は葬式仏會ノ部九条、雑部二条の合計十一条から成り立っている。規約は葬式に関する規定が中心になっており、寺葬を前提とし花輪・盛物のの禁止や、酒・食事などのもてなしの略式化を促している。当時の葬儀ではこの規約にあるような派手な贈答を接待が行われていたと逆に考えることができよう。雑部では町民の軍隊入隊時における町内の饗応について規定している。

 谷町では、この種の規約が明治三十四年(1901)一月にも取り決められていた。これとの違いをもとに当時の生活をもう少し探ってみよう。夜伽の際の饗応について、明治・昭和の規約ともに茶菓子のみとし、酒販を控えることを求めている。明治の規約でも同様に規定しているが、このことは昭和に入っても遵守されず、夜伽で酒飯が出されていたことを物語っている。葬式当日の出棺前の饗応や初七日の饗応は明治の規約で菓子椀と猪口汁の差出しを認めているが、昭和の規約では禁止している。これは明治の規約以前から饗応が過度で、それを抑制するために段階的に一定の部分を認めたが、十分な効果がなく、全面的な禁止を及んだとも推測できる。そのほか、穴掘りや花拵えの膳部提供、報恩講や年回忌などの饗応はいずれの規約も認めている。

 さらに、町内から出征兵士が出た時の対応をみると、明治の規約では、出征兵士に対して町の名義で金一円を贈呈した。そして、酒肴を準備し、天神・愛宕神社内で宮籠をし、祝宴を開いた後、石部駅まで送った。いずれにせよ、こうした規約を周知徹底することは困難であったかもしれないが、当時の町民のくらしぶりを垣間みることができよう。

504010204
 町内の金融機関
 昭和二年六月当時、町内には銀行が二店舗あった。それらは、甲賀銀行石部支店と淡海銀行石部支店である。水口に本店をもつ甲賀銀行は明治三十年(1897)に資本金56,000円で設立され、石部にも支店が置かれた。淡海銀行は同三十二年(1899)に資本金八万円で設立され(設立当初は淡海下田銀行と称した)、下田に本店が置かれた。石部支店は支店第一号として、翌年一月に設立され、銀行業務に着手した。

 その後、昭和四年に淡海銀行は百三十三銀行に買収合併され、百三十三銀行石部支店と改称された。一方、甲賀銀行石部支店は甲賀銀行自体がどう七年三月に解散、廃行した。

 さらに、同八年十月に百三十三銀行と八幡銀行が合併し、新たに滋賀銀行をして設立された。百三十三銀行石部支店は八幡銀行草津支店と合併され、滋賀銀行草津支店の石部出張所となった。同年七月当時、石部出張所の預金高は203,163円、預金高21,843円、貸出金高21,843円であった。そのご、同十六年十二月末の石部出張所の預金残高は910,521円に達したのである。

 その後、現在にいたるまで、滋賀銀行は県下の中核的な金融機関であるが、どう二十四年九月、政府の銀行店舗整備に関する通牒に基づき、店舗の拡充がおこなわれた。その一環として、翌二十五年十月に石部出張所は石部支店に昇格した。その後貯蓄運動を積極的に展開し、石部支店は優秀店・良好店となり、現在に至っている。

504010205
 昭和初期の交通事情
 鉄道では、関西鉄道株式会社が経営していた草津~柘植間は明示40年(1907)に国鉄に買収され、国鉄草津線となった。また、大正十年(1921)から自動車による運送業を立ち入り商会が始めた。そして、定期バスが同十五年、三雲~石部間を運行し、本石部駅が開設された。こらが国鉄バスに代わり、草津~亀山勘にまで延長されたのである。

 橋梁では、野洲川を横切って石部町と甲西町菩提寺を結ぶ中郡橋が県費をもとにして、明治四十二年(1909)~四十三年に建設された。この橋は、交通量の増加と橋自体の老朽化が進み、昭和三年にコンクリート製のものに架け替えられた。