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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第四章 戦争と町民の生活

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第二節 戦時下の社会と生活

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日中戦争下の国内情勢

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 日中戦争の道程 当時、中国東北部にある満州は日本の権益が及ぶ地域であったが、中国やソ連が日本にとって大きな脅威となっていた。日本の関東軍は武力解決しようとして昭和六年(1931)九月十八日夜、奉天郊外の柳条溝(りゅうじょうこう)で南満州鉄道の線路を爆破した。関東軍はこれを中国側の敵対行為であると宣伝し、軍事行動を開始、半年の間に満州を占拠した。これが満州事変である。どう二十年まで中国との間で十五年戦争と呼ばれる泥沼の戦争状態に突入した。 さらに、同十二年七月、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突して、日中戦争が勃発した。両国は宣戦布告なしに中国の広範囲にわたって全面的な戦争に突入したわけである。

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 国内の政治と経済
 満州事変のころから、軍部の若手や右翼は軍事政権による国家改造を求めるファシズム運動を展開し始め、軍人を民間右翼が多くのクーデターを企てた。同七年海軍軍人らが五・一五事件を起こし、犬養毅首相を殺害した。それ以降、「憲政の常道」とされた政党の総裁が首相になる政党内閣の時代は終わり、軍部出身者が首相となった。同十一年には青年将校らが二・二六事件を起こし、高橋是清首相らを殺害した。以後の内閣組閣時には軍部が露骨な干渉を行ったのである。広田弘毅内閣では、現役の軍人を軍部大臣にすることを復活させるとともに、軍事費が十四億円に達する大型予算を計上し、大規模な軍備拡大計画を進めた。その後の内閣においても軍事費は膨張し続けた。こうして、国内の軍国主義化・ファシズム化は進展したわけである。

 日中戦争の拡大にしたがい、軍需品の生産が増大し、財閥が急成長した。鉄鋼などの重工業を中心にした軍需部門が最優先され、繊維などの重工業を中心にした軍需部門が最優先され、繊維などの民需部門は抑制され、輸出が不振となった。それに財政支出の増大により、インフラが進み、国民の生活は困窮に陥ったのである。同十三年には国家総動員法の成立により、国民生活へのしわよせは顕著なものになった。この法律は政府が軍需のために物資などを独占的・優先的に運用できるものであり、政府が軍需目的で物資をはじめ経済と国民生活を統制することが容易になった。

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 国民生活の逼迫
 当時、徴兵されたものは増え続け、労働力が不足し、それに軍需優先の状況で国民の生活必需品も不足したのである。

 労働力んついては同十四年国家総動員法による国民徴用令(勅令)が施行され民需産業に従事する労働者を軍需産業へ徴用することができるようにした。その後、学徒や未婚女性・朝鮮人などが軍需産業に強制的に従事させられた。その数は終戦時に6,000,000人におよんだ。

 生活必需品の統制をみると、同十三年に綿糸やガソリンの切符制が、翌十四年には米穀の配給制が確立され、パーマネントも廃止された。さらに同十五年には砂糖やマッチ、木炭も切符制になり、国民服が制定された。さらにダンスホールも閉鎖されたのである。また、消費節約のため、いわゆる「日の丸弁当」がすすめられた。このように国民生活は少しずつ窮屈な状況に追い込まれることになったのである。

 同十二年九月、国民精神総動員実施要綱が示され、滋賀県下でも実行委員会が組織され、「挙国一致」・「一億一心」・「戦争完遂」といったスローガンを掲げて講演会などが行われた。

 同七年から農業開拓民の送り出しが国策として行われた。いわゆる満州開拓青少年義勇軍であり、同十三年から本格的に開始され、滋賀県では832人が送り出された。これは主に蒲生郡や甲賀郡の農家の次男・三男によって占められていた。