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近・現代と石部


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第四章 戦争と町民の生活

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第二節 戦時下の社会と生活

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戦時体制下の国内情勢

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 太平洋戦争の道程 ドイツは、ヨーロッパ大陸で併合・侵略を進め、同十四年九月、第二次世界大戦が勃発した。日本では同十五年九月、日独伊軍事同盟に調印し、国際的立場を確保し、アジアにおける指導的地位を得ようとした。日本軍は満州国との関係上、ソ連と国境付近で衝突したが、大敗した。また、米英ソの中国に対する援助により中国戦線は長期化し、日本の占領地は都市と鉄道に限られた。さらに石油や鉄鉱石などの重要資源を獲得するために、東南アジアや太平洋海域への進出を意図した南進論がしだいにい高まり、やがて日本の戦略方針となった。同年九月に日本軍がインドシナに進駐したのに対して、アメリカは通商航海条約を破棄し、鉄・石油の対日輸出を完全に停止し、日本は経済封鎖をされたのである。

 政府は日米交渉を継続していたが、軍部の画策により失敗した。同十六年十月、東条英機内閣が成立し、戦争遂行内閣とみなされ、日米関係は決定的な破局を迎え、ついに同年十二月八日、日本海軍がハワイ真珠湾を急襲し、また、日本陸軍はマレー半島に上陸した。この日、日本はアメリカ・イギリスの両国に対して宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。

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 戦争の激化と敗戦
 日本軍は当初、シンガポール・ビルマ・インドネシア・フィリピンなどを占領し、進撃を続けたが、同十七年六月、ミッドウェー海域で日本海軍が敗退すると、アメリカ軍が戦争の主導権を握り、戦局は逆転した。アメリカ軍の総攻撃が始まり、マリアナ諸島を手中にしたアメリカ軍は同十九年十一月からB-29爆撃機による日本本土の空襲を始めた。空襲は同二十年三月の東京大空襲をはじめ、地方都市にも及び、その被害は死者200,000人、負傷者270,000人、焼失家屋1,430,000戸に達した。同年六月には沖縄を占領し、終戦工作を始め、七月にアメリカ・イギリス・中国の三国共同でポツダム宣言を発表した。日本政府は当初、黙殺していたが、八月六日、と九日に広島・長崎に原子爆弾が投下され、さらにソ連が対日宣戦を布告したため、八月十四日、宣言を受諾した。そして、八月十五日正午、天皇のラジオ放送により終戦の宣言があり、太平洋戦争は国民と戦略地域の住民に多大な犠牲を強いて終ったのである。

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 戦時下の国民生活
 昭和十五年、大政翼賛会が結成され、既成政党は解散した。大政翼賛会は官製の上意下立達期間で、その総裁は首相が、支部長には都道府県知事がそれぞれ任に就いた。この会は大日本産業報国会や日本婦人会などのあらゆる団体を傘下においた。また、地域的には行政的下部組織である町内会・部落会を置き、さらにその下に隣組を編成した。こうして戦時下において、大政翼賛会は国民総動員に大きな役割を果したのである。体制翼賛運動を盛り上げるために、滋賀県下では同年十月に新日本建設をめざす県民大会が各地で催された。さらに、国体観念の浸透や戦争に対する士気を高めるために、紀元二千六百年の祝典が挙行された。明治期から滋賀県民の念願であった近江神宮が同年に創建されたが、当時の思潮も反映して、これには多くの県民が動員され、篤志が集められた。

 県内の産業は原材料の配給制により深刻な影響を受けてるようになった。太平洋戦争に突入すると軍需産業に転換を余儀なくされた。同十七年の企業整備令によりさらに軍需転換が促進され、県下の大津や彦根、長浜にあった大手の繊維工場も転換を余儀なくされた。そのほか、国家総動員法にもとづいた勅令が数多く発令され、「ぜいたくは敵だ」・「欲しがりません勝までは」といったスローガンのもとに、国民の生活は厳しくきりつめられた。徴用と軍需産業への動員のために農村労働力が減少したり、農機具や肥料が欠乏したことなどが、日用品や食料品の絶対的な不足の原因となった。このため、国家統制による配給制度が実施された。この配給は大政翼賛会の末端組織の隣組から行われ、隣組に加入することで、はいきゅうがを受けると同時に戦争遂行に協力することが強いられた。

 同十六年四月に、生活必需物資統制令が公布され、六大都市では米穀の配給は通帳制となり、大人一日につき二合三勺(約0.4ℓ)と定められた。同十四年以降、食料は減少し始め滋賀県では同年より米の増産と多収穫品種への転換を積極的に奨励する一方、節米運動も展開され、酒の醸造は抑制された。農村部では同十五年から米の供出制がはじまったが、同十七年二月、食糧管理法により米は政府が全面的に管理統制し、県内の農家に対し徹底した供出米が割り当てられた。食塩も通帳配給制となり、衣料品も切符制が採用され、味噌や醤油、砂糖も配給統制の状態になった。また、タンパク源を補うためイナゴを捕り、それを佃煮にしたり、焼いて食べた。同十八年には滋賀県食糧増産緊急対策要綱が定められ、不耕地利用による雑穀とイモの増産が進められ、食用作物が最優先して作付けされた。都市生活者は配給品だけでは生活が不可能となり、買い出し・物々交換や闇取り引きなどで乏しい生活を維持した。戦局が悪化するにつれて、配給品は質量とも低下した。米は慢性的に欠乏した状態の中で、敗戦直前の米の配給量は、大人一日二合一勺になったために、敗戦直前の米の代用品食品が、出まわった。代用品にはサツマイモ・ジャガイモ・大豆・トウモロコシ・コウリャン・小麦粉が用いられ、野菜も欠乏しがちであった。

 こうした耐乏生活の中で、さらに追い打ちをかけたのは度重なる増税であった。太平洋戦争突入時から顕著になり、新税がどうにゅうされたり、既存の税率が引き上げられた。また、貯蓄面では政府が国際の消化やインフレ抑制のため国民の貯蓄を奨励した。倹約のために「愛国貯金」という名称で半強制的に貯蓄が求められたのである。

 教育面においては、小学校で同十五年より興亞奉公日を毎月一日と定め、県下の児童は昼食を日の丸弁当とし、学校近くの神社で戦争完遂と兵士の武運長久を祈願したのである。中学校での軍事教練は徹底され、勤労奉仕・勤労動員が通年化された。他方、同十九年六月、都市に住む学童の集団疎開が始まり、約410,000人が地方に疎開した。県下には軍事関連施設や工場が少なく、空襲を受ける恐れがないとされて疎開学童の受け入れを行った。同十九年に県下の各市町村が分担して大阪市内の学童・職員11,373人を受け入れた。蒲生郡や高島郡が1,000人を越える人員を受け入れ、甲賀郡では五校860人の疎開学童を受け入れた。

同二十年六月になると、県内も空襲を受けるようになり、大津や彦根の工場、彦根や守山の駅が攻撃された。特に七月三十一日には湖南地域全域にわたって空襲を受けた。