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近・現代と石部


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第四章 戦争と町民の生活

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第二節 戦時下の社会と生活

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町民の出征

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 町民の出征状況 ここでは、昭和六十年に石部町遺族会が行った調査と、筆者が行った同六十三年「戦時下の町民生活に関する実態調査」の二つの調査結果をもとに記述する。

 召集令状、いわゆる赤紙は役場職員が届け、その赤紙は神棚に供えておく家が多くみられた。出征に際して、年御子神社や吉姫神社で祈祷してもらい、小字単位で、あるいは家で親戚や近隣の者が集まって、簡単な酒宴を開いた。家族の者は出征時に弾丸よけを願って千人針(千人の女性が赤糸で一針ずつ縫った白布の腹巻)や、成田不動尊の御守、薬類、本人の好物などを持たせた。

 出征当日、家の出口にカモン(竹に芯にして藁を巻いて杉を刺したもの)を左右に二柱作り、国旗などを掲げた。出征兵士は白旗を振られながらの門出であった。出征兵士は役場の前に集まり、町長の挨拶を受けた後、石部駅まで見送りを受けた。音楽隊が軍歌を奏でるなか、白いエプロンの上に、「国防婦人会」と記した襷を掛けた国防婦人会の女性らは「勝って来るぞと勇ましく……」(「出征兵士を送る歌」)を歌いながら白旗や国旗を振って見送ったのである。

 出征後、残された家族は夫あるいは父の無事に帰還することを神仏に祈った。たとえば、毎月一日と十五日に町内の吉姫神社や吉御子神へ参拝したり、水口町伴谷の春日神社・高山不動尊へもお参りしたのである。

 最後に、出征に際しての悲しいエピソードに触れておきたい。遺族に対する聞き取りの中で数々の哀話を聞いたが、ここでは二つのエピソ-ドを略述しておく。

 (その一 Aさんの場合)

 夫は昭和十八年十一月に、町民に見送られて出征し、三重県津市の連隊に入営した。夫からのハガキが届き、一度だけ面会に津へ行った際、“H”と刺繍したハンカチを手渡したのである。ところが、後日、「石部駅近くの線路際の水田に落ちていた」と言って、その水田耕作者がハンカチを拾い届けてくれた。これを見て、津から戦地に向ったことを夫が知らせるために、夫が石部駅を通過する際に列車から投げ落としたものと信じ、無事の帰還を祈りながら思わず涙が流れ出た。だが、夫は再び石部駅に降り立つことはなかったのである。

 (その二 Bさんの場合)

 夫は昭和十四年九月応召し従軍した後、無事に帰還した。出征時に二歳の長女は、帰還後には四歳になっていた。夫が自宅に戻ると、長女は「あの おっさん誰や」と母に尋ねた。母は「お父さんや」といったが、長女は夫を嫌って寄り付かなかったのである。そして、長女は、「私はお父さんはお菓子屋にいやはる」と言って、夫を忌避した(菓子屋に売っていた五銭のキャラメルの表紙に鉄兜をかぶった兵士が描かれていて、それをお父さん=兵隊と考えていた)。夫は「みずくさいもんや」と嘆いているうちに、再度応召し、長女におじさんと呼ばれたまま帰還しなかった。

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 戦死者の実情
 太平洋戦争海戦当初、太平洋上で戦闘が行われている間も、日中戦争の長期化にともない、日本の陸軍は中国を主戦場とした。陸軍総兵力五十二個師団のうち、三十七師団が中国大陸に配置され、残りの十二師団が南方海域に従事していた。太平洋戦争末期の昭和二十年までに兵士として招集された国民は約7,200,000人に達した。

 滋賀県下の戦没者は昭和元年から同二十年までの間に32,592人となっている。時期的には昭和元年から日中戦争までに140人、日中戦争中に324人であったのに比して、太平洋戦争中には29,212人と、全体の90%近くに達する。市郡別にには、大津市が陸軍3,167人、海軍629人で計3,796人と最も多く、次に甲賀郡であり、陸軍3,099人、海軍642人の計3,741人の戦死者があった。戦死地域別にみるとフィリピンが多く、陸軍7,425人、海軍1,418人の計8,843人になっている。これは京都の伏見に設置された第十六師団歩兵第九連隊の本県出身者が多かったためである。この連隊は同十九年十月のフィリピンのレイテ沖海戦に参加し、連合艦隊が大打撃を受けたことによる犠牲者である。

 さて、日清・日露戦争から中国との十五年戦争・太平洋戦争までの石部町民の出征状況えおみてみよう。ここでは昭和六十年に石部町遺族会が行った調査結果をもとにして、応召時に戸籍が石部町にあって出征し、戦死した町民の実態を探ってみよう。資料的な制約で当時の町民の出征者全体は明らかにできないが、いくらかの傾向は把握できるであろう。

 まず、町民の出征状況をみてみよう。召集された町民のうち、戦死した町民の召集時期を年毎に示したものが図50である。日露戦争で従軍したのは明治三十七年(1904)に5人いる。その後、昭和に入ると、昭和九年から同十四年までに13人、そして、同十五年には713人、そして、同十八年~十九年には戦争の激化にともなって、大幅に増加し同十八年の場合、一年間に24人戦死者に達したのである。この召集時期を月毎にみると同十八年二~四月、同十一月から同十九年一月、同年三~七月に集中的に召集されている。特に、同十八年二月には5人、同年十二月には6人と多くの出征兵士を出した。

 次に召集時の年齢をまとめたものが図51である。最年少の出征者は十七歳であり、最年長の出征者は四十歳であった。二十二歳から二十四歳までの時の出征者が14人と最多になっている。また、五歳区分でみると、二十~二十四歳の者が44人に達し、全体の40%強にあたっている。

 出征兵士の戦死時期についてみると、図52のようになる。同十九年五月以降、毎月戦死者がでている。戦死者は同年七月には一ヶ月で10人にのぼり、以後、毎月平均4人の割合で戦没し、町内に数多くの戦争遺族が生み出された。年毎には同十九年に34人、同二十年に41にんと集中しており、戦争の激化・戦局の悪化にともなって、町民の中から数多くの戦死者が出たことを如実に示している。

 最後に、戦死者の戦死地域を示したのが図53である。石部町の出征者が所属した部隊(連隊)は、京都・伏見連隊が最も多く、そのほか、京都・敦賀連隊、京都・舞鶴海兵隊などの部隊である。戦死地は所属部隊の関係によるが、フィリピン・中国・ビルマが主となっている。なかでもフィリピンと中国が最も多く、29人に及んでいる。フィリピンにおいてはレイテ島で戦死したものが13人にのぼった。中国のなかでは中支方面での戦死者が17人と半数以上に達している。また、傷病を負って帰還し、国内で死亡した者などが、11人に達している。

 (「図50-戦死者の年別召集時期」および「図51-戦死者の招集時の年齢」は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー656ページ」(湖南市市立図書館)をご参照ください。)

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 戦死者の葬儀 戦没者に対する葬儀は当初、盛大に行われた。特に、日露戦争での戦死者は手厚い町葬がなされた。陸軍歩兵上等兵で中国の遼陽にて戦死した西岡徳治郎の公葬(町葬)をみていく。

 葬式当日、午前十一時三十分、太鼓による第一号報で会葬の準備に入る。そして、正午に梵鐘第二号報で喪家の勤行が始められ、その後、喪家から出棺した。喪家の自宅から葬儀場となる大塚山まで葬列の順序は、「故陸軍歩兵上等兵西岡徳治郎氏公葬式順序」によると、次のとおりである。葬列は小学校生徒に始まり、町旗や高張一対・仏旗一対・寄贈生花十七対・盛物二対・三つ具足が続いた。その後に、親族・式事は、そして、他宗寺院・本願寺派執事長・本願寺派寺院・真宗大谷派事務総長・大谷派寺院・導師附・導師・役僧といった僧職者が連なった。次に、提灯一対・銘旗となり、棺と墓標が位置した。さらに、喪主・遺族と戦死者の血縁者が、それに、知事・部長・警察署長・愛国婦人会役員・甲賀忠勇会役員・一般員・郡会議員・町村長・町会議員・公吏といった地域の役職者が並んだ。つづいて、甲賀忠勇会支部旗と在郷軍人・出兵兵士家族・赤十字社員・部徳会員・愛国婦人会員・各団体会員・一般会葬者が列に加わった。通常の葬列に比べると、公職にある知事や郡長・警察署長・郡会議員・町村長・町会議員が葬列に加わり、大規模な葬列になっている。

 葬議場に到達すると、図54の式場図にあるように、参会者は着席した。葬式は参会者一同が着席した後、最初は風琴令図に対して敬礼した。小学校生徒が「命を捨てて」をラッパで演奏して、導師が焼香し、そして、喪主が祭告文を告げ、遺族が焼香したのである。次に大谷派事務総長や本願寺派執事長が弔文をよんだ。さらに、参会者一同が起立した上で知事が祭文を読み上げた。その後も葬列に加わった警察署長や愛国婦人会長・甲賀忠勇会長・町長・郡長会議員などの公職にある者が弔文を読んだ。また、この間に官吏や小学校長が焼香した。これが終ると小学校生徒が唱歌「戦死者を弔ふ歌」を歌い、僧侶が勤行する間に親族が焼香した。そして、奏楽「臣ノ鑑」が奏でられ、喪主の挨拶が行われた。最後に、参会者一同が風琴令図に対して敬礼して葬式は終了し、葬儀場から退場する。当時の戦死者葬儀はきわめて厳粛で盛大なものであったことがうかがえる。太平洋戦争開始当初の戦死者についても、小学校講堂でこうした町葬が行われたようであるが、終戦直前には、自宅や寺で簡単に済ませる場合も多く見受けられた。