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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第四章 戦争と町民の生活

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第二節 戦時下の社会と生活

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戦時下の町民生活

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 地域集団の実態

  ① 隣組

 戦時体制下になると、隣組の組織化が徹底された。各小字毎に五~六の隣組が組織され、一組あたりの戸数は10~20戸程度であった。組には、それぞれ組長がおり、当時は長―区長(小字単位)―組長という支持系統が確立されていた。組長の役割は主に三つあった。第一に、』配給の切符を配布することである。醤油や塩などの食料品や、マッチや灯油などの生活必需品はすべて配給制になっており、配給切符で品物を得たが、組長はその切符を各戸に配った。第二に、空襲警報・警戒警報を通知することである。組内のあらかじめ定められた家の軒下に、警報を表す旗を掲げた。警戒警報の際にはしろはたを、空襲警報の際には赤旗を出したのである。第三に、警報時に誘導指示することであった。警報が発令されると、町職員や区長、在郷軍人の指揮の下で、実際の誘導を行った。

 隣組を単位にして奉仕作業を進めたり、防空壕作りを行った。奉仕作業としては雨山において割木出しの作業や、東寺の砂防ダムや中郡橋付近で草刈りの作業があった。また、防空壕は地下式のもので、六畳ぐらいの広さをもっており、隣組の者が協力して作った。当時、男子が少なくなっており、壕作りには、かなり苦労したらしい。また、防空壕を掘りに、近江八幡や八日市、土山の大野まで行くことがあったという。

 防火訓練も隣組を単位にしてバケツリレー行った。また、終戦直前には石部国民学校校庭で竹槍の軍事訓練をしたのである。

 ② 警防団

 石部警防団は前身の消防団を解組して、昭和十四年四月に組織された。各小字によっては一戸当たり一人の入団義務があった。警防団が竹槍訓練は水口警察署が指揮した。消化訓練は硫黄の粉を撒いておき、それにバケツリレーをして水をかけるという模擬的な訓練を行った。

 ③ 婦人組織

 国防婦人会は小字ごとに組織され、会長、副会長が置かれた。入会資格は既婚者であれば、年齢などは問わず、退会も比較的自由であった。会員は出征兵士を出した家に対して、いわゆる“銃後の守り”としての生活上の援助を行った。また、兵士の出征時に、石部駅で見送りをした。また、毎年九月には砂防用に植樹したハゲシバリという雑木の実を収穫して供出した。会員たちの親睦を深めるために、日帰り旅行を開催した。当時、山崩れや大雨などによる災害が発生すると、会員たちは各戸に綿をもらいに歩き、布団を作り、被害者に贈るなどの慈善事業も行った。また、若い会員15~20にんほどが婦人消防団を組織し、実際の消火活動を行うところもあった。

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 地域生活の規制
 太平洋戦争突入時、国内経済では軍事関連分野が最優先されたために、国民生活は、厳しく規制された。石部町でも全町民に対して「石部町生活改善申合規約」が導十五年九月に示された。その規約は本文六条、付則一条から成り、各町(小字)単位で出されていた「節約勤倹規約」に比べると、きめ細かな内容になっている。

 まず、第一~二条では規約の目的・精神が示されており、戦時体制下における生活の節約を厳しく求めている。第三条では規約内容を実行するために、各区の区長・組頭(組長)などの役員が実行委員に、また、町職員が実行督励委員となったのである。今までの規約は町民に対して取り決めを提示しただけだったが、本規約は取り決めを実際に遂行するための体制作りがなされている。この種の規約を周知することさえ容易ではないのに、取り決めの推進体制を確立していたことや、当時の情勢を考慮すると、本規約は従来のものよりも徹底された可能性が高かったと推測できる。

 生活改善規約の実行項目は従来の規約に比較して多岐にわたっている。三十一の実行項目は婚礼・出産、葬儀・仏事、軍人入退営、社交、個人改善と五つの大項目に整理されている。規約の内容をみると、じゅうらいの規約では制限事項が多くみられたが、本規約は廃止・禁止事項がほとんどである。婚礼・出産に関する項目では、結婚式そのものの質素化を求め、さらに衣装見せや、三日帰りの土産物や箸帯祝の配物、出産祝の制限を行っている。葬儀・仏事に関する項目においては、葬儀の厳粛さ、簡素化を求め、葬儀の香奠返し、盛籠や花輪を禁止した。また、夜伽の際や葬式当日の親戚町内の者に対する供応や、葬式後の儀礼・忌明・逮夜・年忌・喪仕上げなどにおいても招待者の範囲を定め、供養物や供応を廃止した。軍人入退営に関する事項をみると、入退営の祝宴は当事者の家では廃止し、町内の歓送迎宴は一肴一酒に制限した。それに、入退営祝の贈答も禁止された。社交に関する事項については、初老・還暦の贈答と祝宴、中元・歳暮。暑中見舞・見舞返しの贈答、旅行の土産物、祭礼の招待を廃止した。個人改善に関する事項では、家族全員が神仏を礼拝すること、節酒節米などの消費倹約を進めること、享楽を目的とした旅行の制限などを定めている。さまざまな年中行事や人生の節目に行われる儀礼にみられる贈答や酒宴などもすべて禁止されたのである。

 第五条で、この生活改善で節約された費用の使途までも規定している。この費用の一部を公共団体に寄付することを明記している。これらの規約からも、戦争の影響が深く及んでいることが理解できる。

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 戦時下の地域生活の実態

 ① 空襲

 石部町上空はちょうど、B-29爆撃機の京阪神や名古屋への飛行経路になっていた関係上、数多くの爆撃機が飛来し、それらはきらきらと光り美しかったと言われている。石部町でも灯火管制や防空体制をしいていたが、幸いにも直接的な空襲による被害はなかった。昭和二十年三月十四日大坂大空襲の際には、日が暮れても爆撃による火災(130,000戸焼失)で石部町西南の方角の空は赤味がかっていたと言われる。

 ② 疎開者・疎開児童の受け入れ

 疎開者には町民の親戚・縁故者がほとんどで、主に大阪や名古屋から疎開してきた。彼らは寄留先の敷地内に離れを借りたり、空地に小屋を立て掛けて生活している場合が多く見受けられた。石部町では大阪からの疎開児童を受け入れた。大阪市の立葉国民学校(浪速区)の児童が町内に分宿した。西福寺にも20~30人の児童が宿泊したが、このため、仮設の便所を五つ作って対応した。

 ③ 兵隊の宿泊

 町内に兵隊が分宿したことがあったが、宿泊させた家では、肉と皮のままのジャガイモを煮て、炊き出しをした。農兵が甲西町菩提寺でのイモ作りのために、浄現寺に30~50人寄宿していた時には、農兵は近所の風呂に入れてもらう機会があり、その家はお礼に当時、貴重であった缶詰などをもらい受けたという。

 ④ 生産

 作物の肥料は主に各家々のもの(人糞や鶏糞)で自給したが、小学校などの公共施設からもらい受けた家もあった。風呂の水などを入れて肥の量を増やすこともあったようである。また、配給による肥料は石部町農業実行組合長から配られた。

 当時、石油や石炭といった家庭用燃料は入手が困難で、一般家庭では、割木や柴などがほとんどであった。一戸あたり年間400束の割木と柴が必要で、これらは雨山などへ小字単位で取りに行くこともよくあった。谷町の場合には各戸より一人ずつ参加して雨山へ行き、採出した割木は現在の農協の前で均等に分配したことがあった。また柴刈りは農作業の合間に個人で、あるいは、小字単位で付近の山へ行った。この柴も主に自給であったが、京都などから買いにくる者もいた。

 石油などの代替燃料として、亜炭や松脂も利用されたのである。亜炭(炭化の度合が低い石炭)は丸山で産出し、野外へも出荷された。松脂は昭和十五、六年ごろ、灰山などに植えられていた松から脂を採取して専ら出荷された。祭主方法は、切込みが入れられた松には一斗缶が取り付けてあり、脂がそこに流れ出る仕掛けになっていて、松の切り込みに残った脂をヘラで掃き集めたのである。

 出征兵士を出した家の主婦に典型的な一日を回想してもらうと、重労働で辛い毎日を送っていたようである。午前三時に起床し、昼まで山へ行き割木出しや柴刈りをし、午後から田畑で農作業をした。帰宅は早くても午後七時であり、夕食後に子供を寝かしつけ、午後十一時ごろまで繕いなど和裁をした。睡眠時間は四時間程度に限られ、主婦は厳しい生活を強いられていた。

 ⑤ 消費

 衣服は女性(主婦)の場合mンペ・絣を、男性の場合には国民服と脚絆を常用した。モンペは配給された銘仙や古い和服をもとにして縫った。あるいは、古着屋で良い着物三着とモンペに使う木綿一反とを交換したこともあった。モンペが破れて、繕う布に不自由することさえあった。シャツなどの下着の芯を取り、これで作る工夫もした。子供の学生服も徐々に調達が困難になり、子供の衣服は親の古着を再生したものがほとんどであった。ひどい時には配給された軍事用のテント二個をもらい受けて学生服に作り替えたこともあった。農閑期には糸を購入し、町内の染屋で染めてもらった後、家で二、三反の布を織り、衣服を縫った農家も多かった。

 米は自給していたものの、良い米は収穫の半分以上(反当たり五俵)を供出しなければならず、残米だけでは十分でない農家もあり、さまざまな工夫を凝らした。たとえば米の不足量を補充するため、ジャガイモ・サツマイモ・サトイモ・コウリャン・大根・豆粕などを混ぜ合わせてご飯を炊いた。さらに欠乏の度合が増すと、水菜を刻んで少量の米を入れたものである。また、カンタロウは、小麦を挽き、溶いて、味噌汁に流し込んだものである。カボチャも米の代用となり、サツマイモが昼の弁当代わりに利用されることも多かった。大麦には、炊くと倍以上の分量になるヨバシムギと呼ばれるものもあった。

 魚は町内の店や、週に一度のリヤカーによる行商で、塩分の強い辛口塩鮭・丸干・塩昆布を中心に購入したが、肥料用のニシンやグジも食用にした。野菜は農村部であったため、比較的容易に調達できたが、入手困難になると、つうじょうまで利用しないものを食べた。たとえば、サツマイモのツルを湯がき干しておき、適宜、料理したり、水田近くに自生するセリやネギに似たノビル、大根の赤葉も食した。醤油・味噌・大豆・砂糖・缶詰・酒などの食品や調味料、さらにマッチは配給であった。このうち、醤油や味噌・砂糖は特に欠乏することが多かった。このため、大豆を栽培していた農家は家で醤油や味噌を作ったり、その代用品として塩も用いたこともあった。こうした耐乏生活のなかで、くじらと水菜の醤油煮や、家で飼育していた鶏(かしわ)のすきやきはぜいたくな料理のひとつであった。

 灯火管制のために、警報が発令されると、光が漏れないように電灯(裸電球)を風呂敷で巻いたことも多く、蝋燭のひさえも厳しく制限された。

 ⑥ 供出と貯蓄

 まず、米の供出として、毎年秋に一反当たり五俵ほど割り当てられ、農家は非常に困った。また、家庭にある金属製品の大部分が軍事供出させられた。たとえば、金属製の火鉢・窓枠の鉄格子・鉄ビン・鍋・茶釜・仏具・屋根のトユ・蚊帳の吊り手・寺の吊り鐘などの鉄や銅でできているものがその対象になった。さらに、隣組の役員によって指輪や時計が登録させられ、いつでも供出できる体制をとった。それに、貯蓄運動が活発に行われ、各家庭は、「愛国貯金」に加入したり、軍事債権を多く購入したが、これらは終戦後、うやむやになってしまったという。