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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第五章 現代社会の展開と石部

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第一節 戦後改革と町村合併

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戦後改革期の石部

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 戦後改革 ポツダム宣言を受諾した日本は連合国軍に占領され、昭和二十年(1945)八月三十日に連合国最高指令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立った。同年九月には東京に連合国最高指令官総司令部(GHQ)が置かれ、日本のGHQの指令や勧告にしたがって統治された。GHQは幣原喜重郎内閣に対して、五大改革(婦人の解放・労働組合の結成奨励・教育の自由主義化・圧制諸制度の撤廃・経済機構の民主化)を発令した。軍国主義の基盤が財閥と寄生地主制にあると考えたGHQは、これらのうち、経済機構の民主化を最重要課題として、財閥と寄生地主の解体に着手したのである。

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 農地改革の経緯
 石部町の基幹産業が農業であった関係上、戦後の諸改革の中で、石部町に大きな影響を与えた改革のひとつは農地改革であった。農地改革は二段階に分けて進められた。まず、第一次農地改革は同年十二月のGHQの指令にしたがい、農地調整法の改正により、よく二十一年以降に施行された。この改革の主な点は、①不在地主の所有地全部と在地地主の所有する五町歩以上の小作地を小作農の申し出に基づき、市町村農業会の仲介により地主から強制的に買上げ小作農に譲渡して自作農を創設すること、②小作農を金納にすること、③農地改革を実行するために市町村農地委員会を設けたが、その委員選定を従来の市町村長の任命制から、地主・自作・小作の各五人ずつの階層別選挙制に改め、農地委員会の刷新をはかったこと、などである。第一次農地改革では全国の農地1,000,000町歩が解放されたが、十分なものではなかった。

 そこで、同年六月、GHQから農地解放の徹底を勧告され、農地調整法の改正法と自作農創設特別措置法の制定により、第二次農地改革が開始された。この改革の中心点は、①不在地主の所有する小作地全部と在地地主の所有する一町歩(北海道をのぞく)を越える小作地を国家が強制的に買収し、小作農に売り渡し自作農を創設すること、②買収の対象は採草地や宅地・未墾地などにも及んだこと、③市町村農地委員会の委員構成が地主三人・自作二人・小作五人となり、農地の売買譲渡にあたったこと、④残留小作地の小作料は文書により公定の低額金納となったこと、などである。開放面積が全国で約2,000,000町歩に達し、第二次改革で徹底した農地解放が行われた。

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 石部における農地改革
 石部町では、どう二十一年に石部町農地委員会が設立され、農地改革を推進した。石部町の土地買収は表78のように、十六回にわたって行われた。第一回は銅二十二年三月に開始され、最終の第十六回は銅二十五年七月であった。買収の対象地目は、水田に限らず、畑地や採草地・溜池、さらに、宅地にも及んだ。水田の買収面積は全体で約111町8反(108.6ha)であった。このうち、同二十二年十月の第三回買収が33町8反と最も大規模であり、また、同二十三年七月の第七回買収では、13町1反と大規模な買収が行われた。畑地の場合も、第三回・第四回・第七回の買収が大きな面積になっており、畑地の総面積は約8町1反(約6.5ha)であった。このうち、同二十二年十月の第四回買収では13町1反と大規模な買収が行われた。畑地の場合も、第三回・第四回・第七回の買収が大きな面積になっており、畑地の総面積は約8町1反(約6.5ha)であった。表78には記載していないが水田や畑地以外にも、採草地が約3畝、宅地が第十二回と第十三回に、それぞれ8畝4歩(244坪)、4畝15歩(135坪)買収された。

 買収金額をみると、水田の合計金額は93万円あまりとなり、畑地の合計金額は3万円であった。これを1反(約9.9a)あたりの買収金額で換算すると、水田が約834円、畑地で約446円となる。採草地約480円、溜池約438円となる。同二十三年の内地米地方食糧営団の一石あたりの販売価格は546円であった。当時の食糧事情を考慮する必要があるものの、水田一反は白米1.5石と、畑地一反の場合は白米約0.8石と、かなり安価で買収されたことになる。

 この農地改革により、石部町の農業経営は大きく変化したのである。図55は昭和十六年(1941)~三十年における形態別農家数の推移をみたものである。同十六年には自作農家が51戸であったが、農地改革の推進期であった同二十二年に40戸増加して、91戸となった。そして、農地改革の完遂期であった同二十五年には、自作農家は216戸となり、農家戸数全体(378戸)の約60%に及んだ。自小作農家を含めると337戸となり、全体の90%近くになったのである。これに対して、小作農は同二十五年に8戸と激減し、農地改革の主旨である自作農の創設が強力に推進されたことがうかがえる。

 次に、規模別農家数を示したのが図56である。昭和十六年から同三十年までの五反単位でみた農家数の推移でみると、一町歩以上の農家は戦前から一貫して減少し続け、一町五反以上の農家は同三十年にはなくなった。その分、同二十二年には、五反未満の農家が増加し、五反~一町歩の農家も、同二十二年以降に増加したのである。戦後、五反~一町歩の農家が全体の約半分を占め、戦前に比べて小規模な経営となった。石部町では農地改革により、戦前にみられた地主層はなくなり、一町歩未満の自作農業が増加したのである。

 (「図55-形態別農家数の推移ー(農地等解放実績調査)」および「図56-規模別農家数の推移ー(農地等解放実績調査)」は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー571ページ」(湖南市市立図書館)をご参照ください。)