石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


505000000

第五章 現代社会の展開と石部

505010000

第一節 戦後改革と町村合併

505010200

町村合併問題

505010201
 合併の機運 石部町は、明治三十六年(1903)六月に町制が施行されて以来、現在まで一貫して当時の町域を維持している。この間、隣接の町村との合併問題が生起したがその大きな気運は過去二回あった。第一の気運は昭和十六年にあった。滋賀県は戦争遂行を目的とした戦時合策として、強力で健全な自治体の育成をめざしたのである。近隣の野洲町守山町水口町などの大規模な合併が進められた中で、石部町では、現在の甲西町内の柑子袋・平松・針・正福寺の五字との合併が検討されたが、実現されなかった。

 第二の気運は戦後に起こった。昭和二十八年に公布・施行された町村合併促進法は明治以来の旧態的な行制村を近代的で合理的な財政運営のできる町村に再編成しようとするものであった。この施策にしたがい、県は甲賀郡西部の石部町をはじめとする、下田村・三雲村・岩根村の四町村が合併して新町を建設するという計画を提示したのである。これに対して、石部町議会において町村合併特別委員会が設置され、同二十九年に月二十七日に、初会合がもたれた。そこで合併促進協議会の設立に向けての検討がなされ、協議会委員とその役員の選考方法などが議題となった。

505010202
 合併促進協議会の設立
 四町村では合併を協議する機関として、石部町・三雲村・岩根村・下田村合併促進協議会を設立し、その規約は同二十九年三月十三日に制定された。規約は十二条で構成され、その要点を列挙すると、次のようになる。

 一、協議会の目的(事務担任)は町村合併促進法五状の規定に基づき、町村合併に関する必要な調査と新町村建設計画を策定することにある(第一条~二条)。

 二、協議会の組織は会長及び委員二十七人、関係町村区域内の公共的団体である農業協同組合や森林組合長、学識経験者一人の合計七人があたり(非常勤)、また、会長は関係町村長と議会議長、副議長の協議により決定する(第四条~六条)。会長に事故があったり、欠けた際には、会長があらかじめ指定した委員が職務代行すること(第七条)となっていた。

 三、協議会の招集は会長が行い、会議開催の場所及び日時は会議に付議すべき事項とともに、会長が予めこれを委員に通知する(第八条)。

 四、会議運営に関する規定では、会議の開会は半数以上の委員の出席によること、会長が会議の議長となること、議長その他会議の運営に関する必要事項は協議会の会議で決定するとした(第九条)。

 五、協議会の事務に関しては、協議会事務所在地の町村役場に置くこと(第三条)、協議会事務職員は関係町村職員の中から関係町村の町が協議して定めること(第十条)、協議会経費の負担額や支出方法その他必要な事項は関係町村の長が協議し定めるとしている(第十二条)。

505010203
 合併問題の推進
 町村合併促進に関する説明会も開催された。これは町村合併についての一般町民の認識と理解を高めるためのものであった。同二十九年五月二十九日には石部長公開堂において甲賀地方事務所総務課長や滋賀県教育委員会甲賀分室の係官による説明が、およそ一時間半にわたって行われ、聴衆者は約150人にのぼった。説明後の質疑応答がなされたが、主な質問内容は、①町村合併法の内容・性格、②合併の可否と地方交付金補助の多寡、③合併による町財政の健全化の可能性、などであった。

 県が計画した合併案にお対して、石部町は古来より宿駅であったことを理由に、①石部町の町名をそんぞくさせること、②役場位置を変更しないこと、の二つの条件つきで賛成したのである。他方、下田村は商業上の関係から北接する苗村と鏡山村(竜王町)との合併を望み、三雲村と岩根村は石部の町名存続には同意したものの、役場の位置は三町村の中央に位置する必要があると主張し、合併の議論は進展しなかった。その後、下田村がこの協議会から脱会したため、同三十年二月五日、石部町・三雲村・岩根村合併促進協議会を改めて組織された。これにともない、委員の構成が変更され、石部町では町議会議員二人と町助役が加えられ合計十人の委員となった。協議会会長には石部町長があてられた。

 こうした事態のうちに、同三十年四月、三雲村と岩根村が合併して、甲西町が誕生したのである。翌三十一年十月に、前述の合併促進法が期限切れとなった後、未合併町村解消のため新市町村促進法が制定された。

 ところで、県は従来の方針に固執し、同三十二年一月、新促進法に基づいて、県知事名による合併勧告を出したのである。県下ではこの勧告に従って、難行し未解決であった編入合併が進められた。しかし、この勧告は石部町と甲西町(下田村は合併された)では受け入れられず、合併は進展しなかった。さらに、同三十四年十一月に、県の依頼で、内閣総理大臣名の勧告が出されたにもかかわらず、合併には至らなかった。

 合併が実現しなかった要因として、教育的要因と財政的要因の二つがあげられる。(小林博『石部町のあゆみ』、『滋賀県市町村沿革史』)まず、第一に教育問題がその要因となっている。合併問題以前に石部町・三雲村・下田村の四町村による組合立新制中学校の建設・位置問題が起こったのである。四町村が新中学校建設のため組合を結成した後、学校の位置をめぐる対立、加えて、学校建設費の滞納とそれに対する公金取り押さえなどの諸問題があった。この間、町内では、四町村組合立中学校を維持しようとするグループと、石部町単独で中学校を建設しようとするグループの二派に別れて紛糾した。やがて、この問題は町長や助役の辞任にまで発展したのである。以上の経緯から、石部町と三村との間には多くの問題を抱えており、感情的なしこりを残していたわけである。第二の要因は財政的に、これまで単独町維持の前提に立った町運営がなされ、そのような基盤があったことである。つまり、工場誘致や土地改良、住宅・上水道の建設が積極的に進められており、同三十五年以降町村財政において、地方交付税に対する依存度がより高くならない見通しをある程度もっていたことにもよる。