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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第三章 近代社会の発展と石部

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第四節 教育制度の整備

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初等教育の確率

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 教育令と石部学校 明治五年(1872)に発布された学制は欧米の教育制度を範とした雄大な構想をもつ近代学校制度であり、政府はこの構想をもとに全国民を就学させるべく小学校の普及発展をはかった。地方の教育関係者も管内教育の奨励にあたり、その努力の結果、全国津々浦々に小学校は設置され、就学者も次第に増加した。しかし、このような近代学校制度を十分に受け入れるには多くの問題解決のため紆余曲折を経なければならなかった。

 同十三年(1879)九月二十九日、太政官布告第40号をもって教育令が公布された。一般に自由教育令と呼ばれ、学制における中央統制を改めて住民の自由に任せようとするものであった。教育令の規定によれば、その大綱は次のとおりであった。

   一、学制では八年の就学を原則とし、少なくとも十六ヶ月就学すべきものとした。

   二、公立小学校では八年を原則とし、四年まで短縮できることにした。毎年四ヶ月以上授業するものとした。

 三、学制では学校で教育を受けるとされていたが、学校に入らなくても別に普通教育を受ける方途があれば就学とみなした。

 四、以前は学区を設けて小学校を設置することにしていたが、町村、またh数町村合併で設置してもよいと定め、私立学校のあるところは公立学校は設置しなくてもよいとした。

 五、学校を設置する資力に乏しいところでは教員が巡回する方法によることも認めた。

 六、学校の事務管理に学務委員を置くことにした。

 この教育令に基づき同十三年九月学校保護役を廃し、学務委員が置かれた。石部の場合、従来の保護役及び戸長がこれにあたった。

 同年十二月には改正教育令が公布され、再び国の統制を強め、就学義務の強化、小学校設置の規定は各府県知事が指示、教員の任免は府県知事が行い、教育養成学校として府県に設置を義務づけた。

 小学校には初等科・中等科があり、それぞれの修学年限は三年で一級から六級に分けられていた。春と秋に試験が行われ、それぞれ大試験が行われた。同十四年五月には、改正模範教則に基づき、上等・中等・下等と学級編成を改めた。

 同年六月には小学校が改正され、石部学校は第三番小学区、通学区域は石部村と定められ、府議学校は第四番小学区、通学区域は東寺村・西寺村と定められた。また、同年九月には石部学校入退学規則及び生徒心得がそれぞれ次のように制定された。

石部学校生徒入退学規則

    第一条 児童満六年ニ及ブ者は総テ入学セシムルモノトス。

    第二条 児童満六年に及バズト雖モ父兄ノ望ミニ任セ入学ヲ許可ス。

    第三条 児童満六年ニ及ビ理由ナクシテ入学セザルモノハ学務委員ヨリ其父兄ニ説キ必ズ入学セシム。

第四条 生徒半途ニシテ退学ヲ乞ウモノアルトキハ其事故ヲ調査シ事実不得止モノト認ムルトキハ学務委員ヨリ其意見ヲ附シ郡長ノ認可ヲ経ルモノトス。

第五条 満十四年ニ及ブト雖モ未ダ小学全科ヲ卒業セズシテ退校セント欲スルモノハ其父兄ニ説キ尚入学セシム。石部学校 生徒心得

 石部学校 生徒心得

第一条 昇校ハ授業時間ヨリ早着スベシ。

第二条 授業時間ニ後レ来ル者ハ必ズ其理由ヲ陳シテ教師ノ指揮ニ従フベシ。

第三条 教場ニ於テハ渾テ教師ノ指揮ニ従フベシ。

第四条 教場ノ出入ハ必ズ順序ヲ正スベシ。

第五条 授業必須ノ書籍器械ヲ失念シ来ルベカラズ。

第六条 教場ニアリテハ外見談話スベカラズ。

第七条 授業中猥リニ席ヲ離ルベカラズ巳ヲ得ザルトキハ教師ノ許可ヲ受クベシ。

第八条 雨衣ヲ着シ載帽頚巻ノ侭教場ニ入ルベカラズ。

第九条 校内ニテ大声ヲ発シ或ハ疾走スベカラズ。

第十条 教場装置ノ書籍器械等ヲ使用玩弄スベカラズ。

第十一条 放歌ヲナシ或ハ食物ヲ持来ルベカラズ。

第十二条 校ノ内外ヲ論ゼズ苟モ危険ノ遊ヲ為スベカラズ。

第十三条 他生ノ妨害トナルベキ事ヲ為スベカラズ。

第十四条 紙筆墨ヲ始メ其他ノ品物等ヲ貸借スベカラズ。

第十五条 傘履ヲ乱シ或ハ便所ヲ汚スベカラズ。

第十六条 跣足又ハ上草履ニテ地上ニ下リ或ハ下草履ノママ上校スベカラズ。

第十七条 放課後時間タリトモ故ナク外人ヲ併ヒ校ニ入ルベカラズ。

   第十八条 休日ノ外ハ必ズ登校スベシ。

   第十九条 病気事故アリテ欠席スル者ハ其理由ヲ届出ヅベシ。

   第二十条 学校往復ノ途上ニテ遊戯スベカラズ。

   第二十一条 学校退校ノ節ハ教師ニ礼ヲ述ブベシ。

   第二十二条 無用ノ玩弄物ヲ持来ルベカラズ。

   第二十三条 他校ノ教員又ハ戸長学務委員其他尊敬スベキ者ニ逢ヘバ丁寧ニ目礼ヲ為スベシ。

   第二十四条 妄リニ玄関先ヘ出デ或ハ窓戸ヨリ外人ニ接スベカラズ。

      第二十五条 凡テ生徒タルモノハ品行言語ヲ正シクシテ長上ヲ敬シ幼者ヲ撫シ教師口授スル所ト毎教場ニ提示スル修身学要旨ヲ服膺シ以テ之ヲ其身ニ    行ハザルベカラズ。

 明治十五年(1882)十一月、改正小学校教則に基づき、学級の名称をさらに初頭・中等・高等と改め、裁縫の一科を小学校中等科以上の女子生徒に限り課することになった。詳議学校でも石部小学校と同じく初等・中等・高等の三等とした。

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 小学校令と校名の改称
 明治十八年(1885)十二月に内閣制度が創設され、初代文部大臣森有礼により学制が改革され、翌年帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令が公布された。これにより小学校は尋常・高等の二段階に編成され、尋常科は義務教育とした。尋常小学校および高等小学校の修業年限をともに四年とし、それぞれの学科と授業時数・授業要旨を定めた。また、学校経費の財源として授業料が徴収されたが、一方では貧困な地方のために小学簡易料の設置を認め、授業料も徴収しないこととした。小学簡易料にあっては別に要領を定め、修業年限は三年以内、毎日の授業時数を二時間以上三時間以内と定めている。なお教科書は、小学校令後は検定制度をとった。同年九月、学区が改正され、石部村尋常科(石部村・東寺村・西寺村)、石部村簡易科(東寺村・西寺村)となった。詳議学校はこの年の十一月に廃し、代って簡易科阿星小学校を開校し、石部村石部小学校の管理に属した。

 同二十年(1887)小学校令にのっとり、石部小学校は四年生の小学校となり、校名を尋常科石部小学校と改称、同年十一月には簡易科阿星小学校を廃し尋常科石部小学校とした。

 同二十一年二月、簡易科石部小学校が開校、登町(字谷町)にあった石部村の旧米倉を修繕して校舎とした。教室は一室、学年の程度は一年より三年まで、生徒数およそ50人、教員は奥田親富であった。

 同二十二年四月一日、町村制施行とともに学区は一町村一学区となり、急村名は大字名として残り、石部村大字石部・大字東寺・大字西寺にかわり、戸長が村長にかわった。同年十一月、簡易科石部小学校を廃し尋常科石部小学校に合併。生徒は相当級に編入した。訓導畑中八太郎は支校勤務となった。

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 教育勅語と御真影の下賜
 明治二十三年(1890)十月七日、勅令第215号で小学校令を公布し、地方各自通則も制定された。同時に同じゅうきゅうねんの小学校令は廃止された・

 新小学校令の目的は第一条に掲げられ「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と定められた。これは国民学校に至るまで約50年間にわたり小学校教育の目的を示す規定として続いた。尋常小学校を三年または四年とし、小学校簡易科を廃止した。義務教育は三年の尋常小学校終了までとなった。高等小学校は二年・三年・四年の三種類とし、小学校には補習科・専修科を置くことができ、徒弟学校・実業補習学校を小学校の種類とした。

 同二十三年十月三十日、教育に関する勅語が発布された。国民道徳及び国民教育の基本が示され、その後の学校教育ならびに国民教育に大きな影響を与えた。また教育勅語謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式が行われた。石部小学校では同年十一月十七日、教育勅語奉読式が挙行され、甲賀郡役所書記・警察分署長・村長・村会議員そのほか有志者多数臨席した。

 同二十四年六月には小学校祝日・大祭日儀式規定ができ、同年八月には、避暑のため初めて夏期休業が実施された。同年十一月には「小学校教則大綱」が制定され、修身は教育勅語に示された徳目を中心として編さんされた。

 同二十五年二月三日、高等科石部小学校を創設し、二月七日には開校式を挙行、石部小学校に併置した。同年六月、尋常小学校の支校を廃し、同所に阿星尋常高等小学校を開校した。

 同年九月十日、石部小学校は石部尋常高等小学校と改称した。高等科は近隣諸村が未設置のため、野洲郡三上村大字南桜・北桜、栗太郡金勝村東坂・井上・御園・荒張・観音寺、甲賀郡三雲村大字夏見・針・柑子袋、岩根村大字正福寺・菩提寺の小学校終了の児童は同科に入学してきた。なおこれら近隣諸村から通学していた高等科の生徒はそれぞれの村の小学校に高等科が併置されると石部尋常高等小学校から転校した。例えば同三十年(1897)四月より野洲小学校に高等科ができたので、三上村からの通学生はこの年をもって転向した。また金勝村からの通学生は同三十三年四月、三雲村からの通学生は同四十一年(1908)四月、岩根村からの通学生は同四十三年四月以降はそれぞれの高等小学校に通学した。

 同二十六年(1893)三月、明治天皇・皇后の「御真影」が、同年十一月二日、阿星尋常小学校にも両陛下の「御真影」が下賜された。阿星尋常小学校では拝載式終了後、長寿寺で祝宴を開き、愛宕山で花火を打ち上げ、軽気球を飛揚させるなど、詳議学校開校以来未曾有のにぎわいであった。

 同二十八年六月八日、石部尋常小学校級長設置規則が定められた。尋常一年を除き、各級に級長・副級長が選ばれ、受持訓導の伝達や整列点呼などの号令をかけた。また、同三十年四月一日、尋常科四年以上、高等科50人が四日間の予定で大阪市へ修学旅行をしたが、これは石部小学校の修学旅行の始まりである。翌年三月三十一日、高等科男子40人が校長、担任付き添いで尾張・伊勢・方面へ修学旅行、さらに翌々明治三十二年八月四日、尋常科四年以上高等科男女20人が三日間の予定で大津・宇治・奈良へ旅行をした。

 また同年十月十九日、三雲村夏見由良川の河原(現三雲小学校運動場)で近隣五校の連合運動会が行われた。これは最初の連合運動会であり、石部尋常高等小学校として運動会参加の始まりである。