石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


503000000

第三章 近代社会の発展と石部

503030000

第三節 新しい政治への息吹

503030300

井上敬之助の政治活動

503030301
 井上の略歴 明治後半期から昭和初期にかけての滋賀県の政治家を語る上で、忘れることのできない人物に井上敬之助がいる。井上は、慶応元年(1865)三月石部宿本陣小島金左衛門の八男として生まれ、幼名を家之助と称した。明治三年(1870)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同二十年(1887)には敬之助と改名している。

 政治家への道を歩みはじめたのは、同二十年に元大津自由党の創始者の一人であった酒井有の紹介で、自由党系の活動に参加したのが契機だったようである。同二十三年(1890)板垣退助が愛国公党を再興すると、「井上は同志とともに、特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝」したといわれている(木村緑生編著『井上敬之助』)。同年七月の第一回衆議院議員選挙では、滋賀県第二区(甲賀・栗太・野洲郡)において酒井有を擁立し戦った。しかし、酒井はわずか194票しか得票できず、落選している(『滋賀県議会史』第二巻)。

 その後明治三十一年六月に、日本で最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣(隈板内閣)成立の際、自由党と進歩党(立憲改進党の後身)が合流し憲政党を結成されると、井上敬之助は滋賀支部常議員に就任している。憲政党滋賀支部は、発足にあたって、知事公選制および地価修正の実現を政治目標に掲げた。滋賀県は地租改正のときに地価を高く算定された地域であったため、特に地価修正を求める動きには根強いものがあった。井上もこの動きの中で、積極的に活動したと思われる。ところが、第一次大隈内閣は内部対立によってわずか四ヶ月で瓦解、憲政党も旧自由党系と旧進歩党系の憲政本党に分裂した。さらに、憲政党は明治三十三年(1900)九月立憲政友会(総裁伊藤博文)と改称した。井上は政友会滋賀支部の結成に多大な尽力をしたといわれている。

 このような中で、井上敬之助は、前掲表73に示したように、明治二十五年(1892)三月県議員に初当選以来、合計五回の当選を果した。同三十一年九月には県参事会員となり、同四十四年(1911)十月には県会議長となっている。他に石部村会議員、甲賀郡会議員、甲賀銀行頭取なども務めた。

 さらに、井上は表74に掲げたように、第七回衆議院議員選挙(明治三十五年八月)で初当選してから、合計六回衆議院議員となっている。まお、第九回選挙(明治三十七年三月)から第十一回選挙(明治四十五年五月)において立候補を見合わせたのは、明治三十六年の県会議員選挙の際、石部町の武田憲治郎を当選させるために代理投票を教唆したとの容疑で係争中であったからである。衆議院議員在職中、立憲政友会本部総務、代議士会長(第五十三帝国議会時)などを歴任した。また、大正二年十一月から昭和二年(1927)八月死去するまで、滋賀県支部長を務めている。滋賀県では従来から憲政本党およびその後身の立憲国民党の力が優勢であったが、井上は県支部長就任直後より政友会の党勢拡大につとめた。その結果大正八年(1919)・同十二年の県会議員選挙において、政友会が多数を制するようになった。大正八年四月政友会色の強い堀田義次郎知事が着任すると、井上の勢力は一層拡大し、「滋賀県には二人の知事がいる」といわれるほどであった。

 
503030302
 石憲政擁護運動と井上敬之助
 憲政擁護運動とは、大正初期に展開された、幕閥や官僚の専横を打破し政党政治を確立をしようとする運動で、第一次護憲運動とも呼ばれる。運動の発端は、大正元年(1912)十二月に第二次西園寺公望内閣が二個師団増設問題で陸軍と対立、総辞職を余儀なくされたことにあった。後継首相は長州閥・陸軍閥の元老桂太郎で、三度目の組閣であった。こうした中で、まず立憲政友会が、桂内閣や陸軍を激しく追及する運動を展開しはじめ、立憲国民党や世論も同調するようになった。同年十二月十九日東京で、政友会・国民党主催の憲政擁護連合大会が開かれて、多くの聴衆を集めた。以後憲政擁護運動は、急速に全国へ拡大していく。

 滋賀県では大正二年一月十一日、大津で憲政擁護県民大会が県下各地の町村長や郡会議員など多数の参加を得て開かれた。当時県会議員だった井上敬之助は、大会の座長として運営にあたった(『大阪朝日新聞京都附録』大正二年一月十二日号)。続いて、一月十三日甲賀郡寺庄村(甲南町)の大藤館で国民党有志による演説会が開かれ、一月二十九日には水口町鹿深館で政友会滋賀県支部が開催している(『同前』大正二年一月十五日号・二十九日号)。甲賀郡において、二つの演説会が相次いで開かれたのは、前述したように同郡が滋賀県内で「政友党熱の最も旺盛な」地域であったためと思われる。このような中で、二月一日に政友会滋賀県支部は、憲政擁護を求める請願書を大正天皇に提出した。請願書は、「草莽ノ臣井上敬之助等」という言葉で書き始められている(『井上敬之助』前掲)。

 憲政擁護運動が全国的に盛り上がる中で、第三次桂太郎内閣は大正二年二月十日総辞職し、代わって薩摩閥・海軍閥の山本権兵衛が首相となった。その際政友会は、これまでの方針を一転させて山本内閣に協力する姿勢をとったため、尾崎行雄らは脱党し、政友倶楽部を結成した。余波は滋賀県にも及ぶことになる。

 大正二年三月十二日立憲政友会滋賀県支部は総会を開いて解散を決議、大部分の党員は脱党して滋賀県政友倶楽部を結成した。井上敬之助は、三月四日に来県した尾崎行雄を会談して、最終的に脱党の意思を固めている「『大阪朝日新聞京都附録』大正二年三月六日号」。しかし、井上の考えは、「此の際脱党して一面には山本内閣を戒筯し、一面政友会の無能を覚醒せしめたらば、其の方が憲政の発達に有力ならんと信ず」というものであり(『同前』大正三年三月十四日号)、尾崎らの行動とは一線を画していた。また、滋賀県政友会倶楽部の名前では、国民党の党勢に対抗できないとの事情もあった。そこで、井上らは政友会本部からの誘いもあって、同年十一月一日に復党している。

 ところが、政友会滋賀県支部が再出発したばかりの同三年(1914)一月、山本内閣は海軍の汚職事件であるシーメンス事件によって総辞職した。井上は同事件の追及に慎重な態度を表明している(『同前』大正三年二月七日号)。また、当時活発に展開された廃税運動に対しても、政友会県支部の姿勢は、国民党などに比べると相対的に及び腰であった。廃税運動とは、日露戦争時に新設あるいは増徴され、以後永久税化され、地租や営業税等の軽減を求める運動であった。山本内閣は発足当初減税の方針を打ち出したにもかかわらず、実行しなかったため、廃税運動は全国的な広がりをみせていた。

 こうした中で、井上敬之助は、大正四年(1915)三月の第十二回衆議院議員選挙に出馬することになった。政友会県支部は、当初甲賀・栗太・野洲郡を地盤とする候補者として、井上か前代議士吉田虎之助のどちらを出馬させるか決めかねていた。一時は吉田に決まりかけたが、地元栗太郡の不人気が伝えられたため、結局甲賀郡を中心に強い地盤を持ち、かつ県会議長在任時にその力量を高く評価された井上に落ち着いたのである。選挙戦では甲賀郡における井上と国民党の望月長夫の戦いが、「県内第一の見物」といわれて大きな注目を集めた。(『同前』対象四年三月十一日号)。望月は、三雲村(甲西町)に生まれ、のち旧水口藩望月家の養子となり、弁護士を開業、過去三回衆議院議員に当選していた。甲賀郡内の政友会員は、三月三日に水口町鹿深館に集まり、井上の選挙活動に関して協議している(『同前』大正四年三月四日号)。井上と望月は、ともに水口町に郡内選挙本部を、石部町など主要地に支部を設けて激しく争った。

 選挙の結果、甲賀郡内の得票における井上と望月の地盤の強さ、選挙戦の激しさがうかがわれる。だが、選挙区全体では、前掲表74に示すように、望月5,073票、井上4,562票で、井上は最下位当選であった。『大阪朝日新聞京都附録』大正四年三月二十九日号は、「井上敬之助氏は慥に地方政客中の傑出せるものである。其の人の威望を以てして、尚且此の際どき当選は政友会が如何に民望を失っているかを立證するもの」と報じている。この選挙で政友会は、県内選出議員数を前回の二人から一人に減少させたが、復党問題をめぐる紛糾や廃税問題などに対する及び腰的態度が批判を受けたためであろう。

503030303
 並選運動と井上敬之助
 その後政友会滋賀県支部は、支部長井上敬之助の敏腕によって、国民党の県内有力者多数を入党させるなど、着実に勢力を盛り返していった。大正七年(1918)政友会総裁原敬が組閣すると、県内の党勢は一段と強化され、さらに、大正十二年には24人を当選させて、県会の絶対多数を制するに至っている。政友会の党勢拡大は、県内各地から陳情を受けて県に多くの土木事業をすすめると引換えに、票田を獲得していくという方法によるものであった。しかし、こうした県当局と一体になった党勢拡大方法は、他党から厳しい批判を受けることになる。

 当時納税額などによる制限を設けることなく、すべての成年男子に選挙権を与えるべきだとする普通選挙運動(普選運動)が、全国的な広がりを見せていた。しかし、政友会は普選の実現には消極的であった。一方憲政会や国民党は、政友会に対抗する意味もあって、普選運動を強力に推進した。滋賀県でも憲政会県支部を中心に県政改新団が組織され、普選の実現と政友会の意向に忠実な県政運営の打破をめざして、演説会を各地で開催している。特に、井上敬之助には、「普通選挙の反対者であり県政紊乱した」張本人として、一層激しい批判があびせられた(『大阪朝日新聞京都附録』大正九年三月六日号)。

 そこで、原内閣は、普選運動の高揚を抑えるために、選挙制度を多数党のに有利な小選挙区制に変更した上で、大正九年(1920)二月衆議院を解散した。滋賀県では選挙にあたって、憲政会と国民党の提携が成り、政友会に対抗した。中でも井上敬之助が出馬した第三区(甲賀・栗太・野洲郡)では、国民党の有力者清水銀蔵が立候補し、大激戦となった。『大阪朝日新聞付録』大正九年四月二十七日号は、第三区全体の形勢としては井上六分、清水四分であるが、反井上勢力が「全然清水に味方するならば五分五分の形勢となり、甲賀郡に於ける両派の活動に勝敗は決せられる」と報じている。この中で、石部町は、雲井・長野・小原・朝宮・多羅尾村(以上 信楽町)や北杣・貴生川村(以上 水口町)とともに、当然のごとく井上支持に固まっていた。開票の結果は、前掲表74に示したように、井上敬之助7,885票、清水銀蔵6,118票で、井上が勝利をおさめた。なお、政友会は、県内の六議席中五議席を占め、全国的にも圧勝している。

 こうして普選運動は、一時期頓座をよぎなくされた。だが、絶対多数を誇った政友会には、大正十三年(1921)の原敬暗殺後内紛が生じ、後継の高橋是清内閣も七ヶ月にして倒れた。その後加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾といった官僚内閣が続く中で、普選運動は再び活発になってくる。政友会は清浦内閣との提携方針をめぐって分裂、脱党派は西友本党を組織した。一方留党派は、憲政会・革新倶楽部(国民党の後身)とともに護憲三派連合を形成し、普選の実現をスローガンにして、時期尚早の立場をとる政友本党と対立するようになった。

 このような中で、大正十三年(1924)五月第十五回衆議院議員選挙が行われることになった。滋賀県第三区では、政友会の井上敬之助・革新倶楽部の清水銀蔵・政友本党の村上隆祐が立候補したが、事実上は前回と同じく井上と清水の一騎打ちとなった。井上は政友会分裂の際留党したが、元来彼の政治的立場は政友本党に近く、普選の実現に関してもあまり積極的でなかった。選挙においては井上が主に地盤固めを図ったのに対し、清水は「憲政擁護、普選実行」をスローガンに掲げて活発な言論戦を展開した。その数は、甲賀郡47回、栗太郡33回、野洲郡31回に及んでいる(『大阪朝日新聞京都附録』大正十三年五月十日号)。開票の結果は前掲表74のように、井上7,452票、清水6,828票となり、再び井上が勝利を収めた。政友会は滋賀県内で四議席を獲得、全国的にも護憲三派連合が圧勝し、憲政会が第一党となった。選挙後憲政会総裁加藤高明を首班とする内閣が成立し、翌大正十四年(1925)には普通選挙法が制定されて、普選はようやく実現したのである。