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古代の石部


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第一章 古墳の世紀 (こふんせいき

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第一節 古墳と首長 (こふんしゅちょう

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古墳文化の成立 (こふんぶんかせいりつ

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 野洲川流域の古墳と首長 弥生時代から徐々に身分の分化が進み、豪族が発生する。彼らが自らの権力を誇示するために古墳を築造しはじめる4世紀から7世紀までの約400年間を古墳時代と呼ぶ。

 やすがわりゅういきこふんしゅちょう やよいじだいからじょじょみぶんぶんかすすみ、ごうぞくはっせいする。かれらがみずからのけんりょくこじするためにこふんちくぞうしはじめる4せいきから7せいきまでのやく400ねんかんこふんじだいぶ。

 古墳時代は4世紀と5世紀そして6世紀以降とでは古墳の内容が大きく異なるため、4世紀を前期、5世紀を中期、6世紀以降を後期に区別している。現在、日本列島に存在する古墳は15万基以上とみられており、その約8割は後期に属するものである。

 こふんじだい4せいき5せいきそして6せいきいこうとではこふんないようおおきくことなるため、4せいきぜんき5せいきちゅうき6せいきいこうこうきくべつしている。げんざいにほんれっとうそんざいするこふん15まんきいじょうとみられており、そのやく8わりこうきぞくするものである。

 はじめ首長墓として出発した古墳も後期になると、社会的地位のそれほど高くない人までが古墳を築き始め、尾根筋や谷あいの狭い範囲に数十基から数百基が密集して群集墳を形成するようになる。また、前・中期の古墳に大陸から伝来した横穴式石室は外界に通じる出入り口である羨道をもち、死者の追葬を可能にしている。さらに、副葬する品々は生活用品が多くなり、石室内を死後の世界と考えるようになった。

 はじめしゅちょうぼとしてしゅっぱつしたこふんこうきになると、しゃかいてきちいのそれほどたかくないひとまでがこふんきずはじめ、おねすじたにあいのせまはんいすうじゅっきからすうひゃっきみっしゅうしてぐんしゅうふんけいせいするようになる。また、ぜんちゅうきこふんたいりくからでんらいしたよこあなしきせきしつげかいつうじるでいぐちであるせんどうをもち、ししゃついそうかのうにしている。さらに、ふくそうするしなじなせいかつようひんおおくなり、せきしつないしごせかいかんがえるようになった。

 5世紀の古墳は呪術的・宝器的な品々を副葬する司祭者的首長の古墳である前期古墳から、多量の武器類や金メッキを施した装身具・武具・馬具を副葬する武人的性格の首長の古墳へ変化して、極端に大規模化する。まさに大王の世紀と呼ぶにふさわしい時期である。

 5せいきこふんじゅうじゅつてきほうきてきしなじなふくそうするしさいしゃてきしゅちょうこふんであるぜんきこふんから、たりょうぶきるいきんメッキをほどこしたそうしんぐぶぐばぐふくそうするぶじんてきせいかくしゅちょうこふんへんかして、きょくたんだいきぼかする。まさにだしおうせいきぶにふさわしいじきである。

ず10 しがけんないしゅようこふんぶんぷず

しがけんおもこふん

1.きたまきのこふんぐん  2.にしまきのこふんぐん  3.おうづかこふん  4.みょうけんざんこふんぐん  5.しょうぐんづかこふん  6.たてはやじんじゃこふんぐん  7.くまのもとこふんぐん  8.しもだいらこふんぐん  9.たなおおつかこふんぐん  10.いなりやまこふんぐん  11.はいどこふんぐん  12.おとわこふんぐん  13.きたこまつこふんぐん  14.いしがみこふんぐん  15.いしがまこふんぐん  16.まんだらやまこふんぐん  17.おおつかやまこふんぐん  18.かすがやまこふんぐん  19.せいらこふんぐん  20.たかみねこふんぐん  21きのおかこふんぐん.  22.あのうこふんぐん  23.あかつかこふん  24.だいつうじこふんぐん  25.ひゃっけつこふんぐん  26.ふくおうじこふんぐん  27.おうじやまこふん  28.ちゃうすやまこふん  29.こくぶおおつかこふん  30.よこおやまこふんぐん  31.おりべこふん  32.みなみがさこふんぐん  33.おいわけこふん  34.したみこふん  35.つがきやまこふん  36.あんようじこふんぐん  37.きただにこふんぐん  38.しんかいこふんぐん  39.かきがさわこふんぐん  40.みやのもりこふん  41.ろくたんこふんぐん  42.きつねぐりこふんぐん  43.おんようざんこふんぐん  44.いわさかこふんぐん  45.うかわこふんぐん  46.たかやまこふんぐん  47.ちょくしこふんぐん  48.いずみこふんぐん  49.つかごえこふん  50.きつねづかこふん  51.かわだいせき  52.きべてんじんまえこふん  53.おおいわやまこふんぐん  54.えちぜんづかこふん  55.たなかこふんぐん  56.みつやまこふんぐん  57.いわやこふん  58.あまみやこふんぐん  59.おかやまこふんぐん  60.くるまづかこふん  61.せんぞくこふんぐん  62.はちまんしゃこふんぐん  63.あらまきこふんぐん  64.きむらこふんぐん  65.はんどうづかこふんぐん  66.こみかどこふんぐん 67.じょうらくじやまこふん 68.ひょうたんやまこふん 69.りゅうせきざんこふんぐん 70.いのここふんぐん 71.かわなみこふんぐん 72.くまのもりこふん  73.おだかりこふん  74.たかつかこふんぐん  75.かみきしもとこふんぐん  76.しょうどうこふんぐん  77.ながつかこふんぐん 78.こやぎこふん 79.ひらやなぎこふんぐん  80.こんごうじのこふんぐん  81こうじんやまこふんぐん.  82.つづらきたこふんぐん  83.そとわこふんぐん  84.おおつかこふん  85.おおおかこふんぐん  86.つかはらこふんぐん  87.つかのこえこふん  88.やまつてるこふん  89.えちぜんづかこふんぐん  90.かきごめこふん  91.ちゃうすやまこふん  92.からこづかこふん  93.まるやまこふん  94.あかだにこふんぐん  95.ひばりやまこふん  96.おかのこしこふん  97.のりくらこふんぐん  98.わかみややまこふん  99.こほりこふんぐん 100.ひめづかこふん  101.よこやまじんじゃこふん  102.ゆるぎやまこふんぐん  103.ももやまこふんぐん  104.くろだながやまこふんぐん  105.かみのやまこふんぐん  106.しおづまるやまこふんぐん  

 ところで、古墳の分布形態をみると、古式の大型古墳で構成される古墳群で何十年間隔に一古墳を順次築く場合がある。一世代に一古墳を築造する。いわゆる首長の地位世襲型といわれるもんで、出自が同じ首長一族の歴代墓である。また、川筋でいくつかの古墳群が分布して、一古墳群のみに大規模な古墳を増築する場合がある。その被葬者たちはその地域での最有力者と理解され、川筋で構成する部族連合の大首長家系の古墳群といえる。さらに、川筋単位の中に一世代で最大規模の古墳を築くが、次代には隣の古墳へ移動するように、世代によって最大の古墳が移動していくものがある。これは、首長権をいくつかの部族間で持ち回りするもので、一家系に権力が固定していないことを物語っている。また、これまで最大の古墳を有していた古墳群が途中で消滅するか小規模化して、これに代わってその周辺に新しい古墳群が出現して、その中に規模の大きな古墳が存在する場合がある。これは、これまでの群集墳から離れて出現する前方後円墳も同じ形態に含まれ、新興層型首長墓といえる。

 ところで、こふんぶんぷけいたいをみると、こしきおおがたこふんこうせいされるこふんぐんなんじゅうねんかんかく1 こふんじゅんじきずばあいがある。1 せいき1 こふんちくぞうする。いわゆるしゅちょうちいせしゅうがたといわれるもんで、しゅつじおなしゅちょういちぞくれきだいぼである。また、かわすじでいくつかのこふんぐんぶんぷして、1 こふんぐんのみにだいきぼこふんぞうちくするばあいがある。そのひそうしゃたちはそのちいきでのさいゆうりょくしゃりかいされ、かわすじこうせいするぶぞくれんごうだいしゅちょうかけいこふんぐんといえる。さらに、かわすじたんいなか1 せだいさいだいきぼこふんきずくが、じだいにはとなりこふんいどうするように、せだいによってさいだいこふんいどうしていくものがある。これは、しゅちょうけんをいくつかのぶぞくかんまわりするもので、1 かけいけんりょくこていしていないことをものがたっている。また、これまでさいだいこふんゆうしていたこふんぐんとちゅうしょうめつするかしょうきぼかして、これにわってそのしゅうへんあたらしいこふんぐんしゅつげんして、そのなかきぼおおきなこふんそんざいするばあいがある。これは、これまでのぐんしゅうふんからはなれてしゅつげんするぜんぽうこえんふんおなけいたいふくまれ、しんこうそうがたしゅちょうぼといえる。

 このように、首長墓の分布形態にはいろいろなタイプがあるが、野洲川流域ではどうであろうか。丸山竜平氏は野洲川流域に分布する11基の前方後円墳を摘出され、首長権を11の古墳の主で持ち回りしていることを推定された。それによると、4世紀に野洲町天王山古墳が出現して栗東町亀塚古墳、同町大塚越古墳、草津市山寺北谷11号墳と続き、5世紀になり石部町宮の森古墳、水口町泉塚越古墳、栗東町林車塚古墳、草津市南笠一・二号墳へ、6世紀に入って野洲町越前塚古墳、同町穴蔵古墳、甲賀町岩室古墳に続くものである。このように、丸山氏は古墳時代全般を通じて首長権が連続して持回る構図を想定されている。しかし、昭和六十二年(1987)守山市川田遺跡から人物や馬形埴輪をともなった6世紀前半の前方後円墳が発見された。川田遺跡の時期は越前塚古墳から穴蔵古墳の築造期に相当しており、前方後円墳をこの地域における首長墓とするならば、6世紀前半の野洲川流域には二つの首長権が存在したことになり、首長権の持回りという直接的連続性はたどれなくなる。

 このように、しゅちょうぼぶんぷけいたいにはいろいろなタイプがあるが、やすがわりゅういきではどうであろうか。まるやまりゅうへいしやすがわりゅういきぶんぷする11きぜんぽうこうえんふんけんしゅつされ、しゅちょうけん11のこふんぬしもちまわりしていることをすいていされた。それによると、4せいきやすちょうてんのうざんこふんしゅつげんしてりっとうちょうかめづかこふんどうちょうかめづかこふんくさつしやまでらきただに11ごうふんつづき、5せいきになりいしべちょうみやのもりこふんみなくちちょういずみつかごえこふんりっとうちょうはやしくるまづかこふんくさつしみなみがさ 1 ・ 2 ごうふんへ、6せいきはいってやすちょうえちぜんづかこふんどうちょうあなぐらこふんこうかちょういわむろこふんつづくものである。このように、まるやましこふんじだいぜんぱんつうじてしゅちょうけんれんぞくしてもちまわこうずそうていされている。しかし、しょうわ62ねん(1987)もりやましかわたいせきからじんぶつうまわたはにわをともなった6せいきぜんはんぜんぽうこうえんふんはっけんされた。かわたいせきじきえちぜんづかこふんからあなぐらこふんちくぞうきそうとうしており、ぜんぽうこうえんふんをこのちいきにおけるしゅちょうぼとするならば、6せいきぜんはんやすがわりゅういきには2つしゅちょうけんそんざいしたことになり、しゅちょうけんもちまわりというちょくせつてきれんぞくせいはたどれなくなる。

  ず11: いしべちょうしゅうへんこふんじだいいせきぶんぷず 

1.みやもりこふん  2.かきがさわこふんぐん  3.ろくたんこふんぐん  4.かなやまこふんぐん  5.あみだじこふんぐん  6.ちゃうすやまこふんぐん  7.きつねぐりこふんぐん  8.きつねづかこふん  9.りゅうおうざんこふんぐん  10.くぼこふんぐん  11.ふさぎだにこふんぐん  12.つかやまこふん  13.いわせたにこふんぐん  14.いどいせきしゅうらくあと  .(よしひめじんしゃうらやまこふんぐん)  B.まるやまこふんぐん

 古墳時代は6世紀を画期として、横穴式石室が一般的に採用され、各地に群集墓が出現するように、古墳の構造は大きく変貌する。それは前記以来の政治的部族同名体制が動揺をきたし、大和政権は新たな地域支配と政治秩序の確立を必要としていたのである。そこで、在地勢力である有力家父長層の地位を高めて、政治的関係を結び新しい政治体制を確立して、大和政権によるより強固な全国制覇を行おうとしたのである。この社会構造の変化は古墳構造の変化であり、川田遺跡の被葬者が大和政権を背景に一つの勢力権を形成することとは矛盾しない。

 こふんじだい6せいきかっきとして、よこあなしきせきしついっぱんてきさいようされ、かくちぐんしゅうぼしゅつげんするように、こふんこうぞうおおきくへんぼうする。それはぜんきいらいせいじてきぶぞくどうめいたいせいどうようをきたし、やまとせいけんあらたなちいきしはいせいじちつじょかくりつひつようとしていたのである。そこで、ざいちせいちょくであるゆうりょくかふちょうそうちいたかめて、せいじてきかんけいむすあたらしいせいじたいせいかくりつして、やまとせいけんによるよりきょうこぜんこくせいはおこなおうとしたのである。このしゃかいこうぞうへんかこふんこうぞうへんかであり、かわたいせいひそうしゃやまとせいけんはいけい1つせいりょくけんけいせいすることとはむじゅんしない。

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 宮の森古墳 石部町大字宮の森に所在する当古墳は、舌状に張り出した丘陵の先端に構築されており、石部町の平野を一望することができる。本来は長さ約100mの前方後円墳であったが、前方部は完全に消失しており後円部のみ遺存する。北側の一部は削平されている。周濠の有無は明らかではない。主体部は攪乱され、明治二十九年(1896)ごろに鉄製刃・剣などが出土している。おそらく、粘土槨であったと推定される。

 みやのもりこふん いしべちょうおおあざみやのもりしょざいするとうこふんは、したじょうはりだしたきゅうりょうせんたんこうちくされており、いしべちょうへいやいちぼうすることができる。ほんらいながやく100メートルぜんぽうこうえんふんであったが、ぜんぽうぶかんぜんしょうしつしておりこうえんぶのみいそんする。きたがわいちぶさくへいされている。しゅうごううむあきらかではない。しゅたいぶかくらんされ、めいじ29ねん(1896)ごろにてつせいとう・けんなどがしゅつどしている。おそらく、ねんどかくであったとすいていされる。

 昭和三十三年(1958)に主体部推定付近と後円部の墳上部分の発掘調査が行われ、主体部推定付近から家形埴輪が、墳丘斜面から円筒埴輪が出土した。『石部町史』によると、現状をとどめる状態にあった基底部の列は、墳頂付近と中位・下位斜面に認められ、上・中・下位の三段に円筒埴輪をめぐらしていたようである。その中に形象埴輪が配されていたかどうかは明らかではないが、当時の実測図をみるかぎりでは形象埴輪は立てられていなかったと考えられるなお、出土埴輪の中に朝顔形埴輪の破片が一点あり、円筒埴輪列の中に朝顔形埴輪が配されていた可能性ははきわめて高い。

 しょうわ33ねん(1958)にしゅたいぶすいていふきんこうえんぶふんじょうぶぶんはっくつちょうさおこなわれ、しゅたいぶすいていふきんからいえがたはにわが、ふんきゅうしゃめんからえんとうはにわしゅつどした。『いしべちょうし』によると、げんじょうをとどめるじょうたいにあったはかぞこぶれつは、ふんちょうふきんちゅうい・かいしゃめんみとめられ、じょう・ちゅう・かいさんだんえんとうはにわをめぐらしていたようである。そのなかけいしょうはにわはいされていたかどうかはあきらかではないが、とうじじっそくずをみるかぎりではけいしょうはにわてられていなかったとかんがえられる。なお、しゅつどはにわなかあさばおがたはにわはへん 1 てんあり、えんとうはにわれつなかあさがおがたはにわはいされていたかのうせいははきわめてたかい。

 墳頂部の最上位では南側から6本の円筒埴輪の基底部がほぼ直線的に配されている。6本は5〜10cm間隔に配置され、また、墳頂部の西側から破片が列をなして出土しており、ほぼ現位置に推定されることから、約10cm間隔の密度で全周するとすれば、総延長約30mに約90本の数字が求められる。基底部は古墳封土中に埋設されているが、第一タガを残すものがないことから、全体に浅く埋設されていたことがわかる。中位円筒埴輪列は上位から約3m下に立てられ、東側で一ヶ所、西側で二ヶ所の三ヶ所に認められる。しかし、中位の実測図がないため、何本であったのか明らかではない。下位円筒埴輪列は中位から約3m下の墳丘東側斜面から10本出土している。埴輪の間隔は南側から4本目までは45〜75cm、中央付近は約10cm、9本目と10本目80cmになる。出土総延長は5.5mあることから、全周するとすれば約150mに約270本が配されていたことになる。

 ふんちょうぶさいじょういではみなみがわから6ぽんえんとうはにわきていぶがほぼちょくせんてきはいされている。6ぽん5〜10センチメートルかんかくはいちされ、また、ふんちょうぶにしがわからはへんれつをなしてしゅつどしており、ほぼげんいちすいていされることから、やく10センチメートルかんかくみつどぜんしゅうするとすれば、そうえんちょうやく30センチメートルやく90ぽんすうじもとめられる。きていぶこふんふうどちゅうまいせつされているが、だいいちタガをのこすものがないことから、ぜんたいあさまいせつされていたことがわかる。ちゅういえんとうはにわれつじょういからやく3メートルしたてられ、ひがしがわ 1 かしょにしがわ 2 かしょ 3 かしょみとめられる。しかし、ちゅういじっそくずがないため、なんぼんであったのかあきらかではない。かいえんとうはにわれつちゅういからやく 3 メートルしたふんきゅうひがしがわしゃめんから10ぽんしゅつどしている。はにわかんかくみなみらわから4ほんめまでは45〜75センチメートルちゅうおうふきんやく10センチメートル9ほんめ10ぽんめ80センチメートルになる。しゅつどそうえんちょう5.5メートルあることから、ぜんしゅうするとすればやく50メートルやくい270ぽんはいされていたことになる。

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 出土の埴輪 昭和三十三年に出土した埴輪は合計で20本以上あるが、いずれも破片で完形品はない。大部分は第一タガより下位の基底部で、タガは破片が3点存在するが何段目に相当するかは不明である。朝顔形埴輪は肩部のタガ付近の破片である。

 しゅつどはにわ しょうわ33ねんしゅつどしたはにわごうけい20ぽんいじょうあるが、いずれもはへんかんせいひんはない。だいぶぶんだい 1 タガよりかいきていぶで、タガははへん 3 てんそんざいするがなんだんめそうとうするかはふめいである。あさがおがたはにわかたぶのタガふきんはへんである。

 円筒埴輪の基本的な形態は底部から口縁部に向かってゆるやかに外傾する筒状を呈する。体部には3条以上のタガによって四段以上に区画し、三段目付近に円形や三角形の透孔を配する。一般的な大きさは、器高40〜50cm、口縁部径約30cm、底部径約17〜22cmで平均約22cmになる。朝顔形埴輪は円筒埴輪と同様の体部の上に、身部をしぼった肩部がつき、その上に大きく外反する口縁部をのせる。タガは5ないし6条めぐらし、器高は70cmあり、低部径は円筒埴輪とほぼ同値である。

 えんとうはにわきほんてきなけいたいていぶからこうえんぶかってゆるやかにがいけいするつつじょうていする。たいぶには3じょういじょうのタガによって4だんいじょうくかくし、3だんめふきんえんけいさんかっけいとうこうはいする。いっぱんてきおおきさは、きこう40〜50センチメートルこうえんぶけいやく80センチメートルていぶけいやく17〜22センチメートルへいきんやく22センチメートルになる。あさがおがたはにわえんとうはにわどうようたいぶうえに、しんぶをしぼったかたぶがつき、そのうえおおきくがいはんするこうえんぶをのせる。タガは5ないし6じょうめぐらし、きこう70センチメートルあり、ていぶけいえんとうはにわとほぼどうちである。

 制作は粘土帯を輪積みまたは巻き上げで作っており、底部は4〜5cm、器高が45cmのものならばおよそ20回にわたって積み上げていることになる。なお、内面にはつぎ目痕を残しているものが多い。

 せいさくねんどたいわづみみまたはげでつくっており、ていぶ4〜5センチメートルきこう45センチメートルのものならばおよそ20かいにわたってげていることになる。なお、ないめんにはつぎめこんのこしているものがおおい。

 内外面の調整は時期によって異なるが、宮の森古墳の円筒埴輪の外面調整は、第一次調整にタテハケを施し、第二次調整にヨコハケを施しており、底部を第一次調整だけの埴輪(D〜I)もある。タテハケを組合わせるもの(ABEFJK)があり、ハケにはタテハケとヨコハケとがある。

 ないがいめんちょうせいじきによってことなるが、みやのもりこふんえんとうはにわがいめんちょうせいは、だい 1 じちょうせいにタテハケをほどこし、だい 2 ちょうせいにヨコハケをほどこしており、ていぶだい 1 じちょうせいだけのはにわ(D〜I)もある。タテハケをくみあわせるもの(ABEFJK)があり、ハケにはタテハケとヨコハケとがある。

 胎土は細砂粒を多く混入させるもの(G〜IK)や砂粒の少ないもの(@〜FJ)があり、砂粒には石英を含んでいる。焼成は比較的軟質で、表面に黒斑が認められる。色調は明褐色(DH)、淡明褐色(AGK)、淡褐色(@BCEFIJ)などを呈する。

 たいどさいさりゅうおおこんにゅうさせるもの(G〜IK)やすなつぶすくないもの(@〜FJ)があり、すなつぶにはせきえいふくんでいる。しょうせいひかくてきなんしつで、ひょうめんこくはんみとめられる。 しきちょうめいかっしょく(DH)、たんめいかっしょく(AGK)、たんかっしょく(@BCEFIJ)などをていする。

 主体部推定地の北側から出土した形象埴輪は家形埴輪とみられる。この家形埴輪は二個体以上ある。LからNは屋根の破片で、切妻作りである。軒先は肥厚につくり、その裏面には壁体につづく壁の一部や補強粘土痕が残る。Lは屋根の上部にヘラ書きにより網代ぶきを表現した線刻がある。その下位に幅1.4cmの凸帯でおさえ木を表現している。破風板は欠失するが、剥離痕から厚さ約1.5cmであったことがわかる。軒先裏面と妻には赤色顔料が残る。屋根勾配は約40度である。胎土は良く、焼成は堅く、淡褐色を呈する。Mは屋根上部にヘラ書きによる網代ぶきを表現した線刻がわずかに残り、その下位に沈線を2条ひく。おさえ木を略化したものである。破風板は軒先部分が残り、カーブを描いて立ち上がっている。表面に赤色顔料を塗布している。屋根勾配は約48度である。胎土は良く、淡褐色を呈し、焼成はやや軟質で黒斑が認められる。Nは軒先の破片で屋根の表面に赤色顔料を塗布している。屋根勾配は42度前後である。胎土は良く、焼成は軟質で明褐色を呈する。Oは軒先の破片とみられるが、他の形象埴輪の可能性もある。胎土は良く、焼成はやや堅く、明褐色を呈する。Pは壁面の角部である。柱部は貼合せで突出さす。壁面には横方向のハヶ目を施し、柱部は縦方向のハヶ目を施す。前面に赤色顔料を塗布している。胎土は良く、焼成は軟質で、明橙褐色を呈する。Qは家形埴輪の基部で裾廻台のコーナー部分である。壁面より平で3.5cmのところに柱の剥離痕が認められる。裾廻台は壁面に貼付けており、貼付け部分で剥離している。胎土は良く、焼成は堅く、淡褐色を呈する。R〜(○21)は家形埴輪の一部であり、Rは派風板の破片とみられる。黒斑があり淡明褐色を呈する。Sは張付突帯で中央部で横方向にのび、T字形を呈する。側面には赤色顔料を塗布している。胎土は良く、焼成は堅く、黒斑が認められ、淡褐色を呈する。(○21)は家形埴輪の棟の一部をみられる破片である。

 しゅたいぶすいていちきたがわからしゅつどしたけいしょうはにわいえがたはにわとみられる。このいえがたはにわ 2 こたいいじょうある。LからNはやねはへんで、きりつまつくりである。のきさきひこうにつくり、そのりめんにはへきたいにつづくへきいちぶほきょうねんどこんのこる。Lはやねじょうぶにヘラきによりあじろぶきをひょうげんしたせんこくがある。そのかいはば1.4センチメートルとんがりたいでおさえひょうげんしている。はふいたけっしつするが、はくりこんからあつやく1.5センチメートルであったことがわかる。にきさきりめんおもてにはせきしょくがんりょうのこる。やねこうばいやく40どである。たいどく、しょうせいかたく、たんかっしょくていする。Mはやねじょうぶにヘラきによるあみしろぶきをひょうげんしたせんこくがわずかにのこり、そのかいちんせん2じょうひく。おさえりゃくかしたものである。はふいたのきさきぶぶんのこり、カーブをえがいてたちあがっている。ひょうめんせきしょくがんりょうとふしている。やねこうばいやく48どである。たいどく、たんかっしょくていし、しょうせいはややなんしつこくはんみとめられる。Nはのきさきはへんやねひょうめんせきしょくがんりょうとふしている。やねこうばい42どぜんごである。たいどく、しょうせいなんしつめいかっしょくていする。Oはのきさきはへんとみられるが、けいしょうはにわかのうせいもある。たいどく、しょうせいはややかたく、めいかっしょくていする。Pはへきめんかくぶである。はしらぶはりあわせでつきださす。へきめんにはよこほうこうやっつがめほどこし、はしらぶたてほうこうやっつがめほどこす。ぜんめんせきしょくがんりょうとふしている。たいどく、しょうせいなんしつで、めいとうかっしょくていする。Qはいえがたはにわきぶすそまわしだいのコーナーぶぶんである。へきめんよりたいら3.5センチメートルのところにはしらはくりこんみとめられる。すそまわしだいへきめんはりつけており、はりつぶぶんはくりしている。たいどく、しょうせいかたく、たんかっしょくていする。R〜(○21)はいえがたはにわいちぶであり、Rははふいたはへんとみられる。こくはんがありたんめいかっしょくていする。Sははりつけとったいちゅうおうぶよこほうこうにのび、ティーじがたていする。そくめんにはせきしょくがんりょうとふしている。たいどく、しょうせいかたく、こくはんみとめられ、たんかっしょくていする。(○21)はいえがたはにわむねいちぶをみられるはへんである。

 (○22)は草摺形埴輪ないしは衣蓋の埴輪下部端である。先端部をわずかに肥厚させる。表面の下位に2条の沈線を描き、その上部に綾杉文を線刻して、焼成はやや堅く、黒斑が認められ淡褐色を呈する。(○23)は衣蓋の肩部と推定される。上部を肥厚さすがその部分は剥離する。表面には縦方向と横方向の沈線によって区画し、区画の下位に綾杉文を配する。胎土は良く、焼成は堅く、黒斑が認められ、淡褐色を呈する。(○24)は表・裏面に凸帯をもち、表面の凸帯はさらに突出する。

 (まる22)はくさすりがたはにわないしはきぬがさはにわかぶたんである。せんたんぶをわずかにひこうさせる。ひょうめんかい2じょうちんせんえがき、そのじょうぶあやすぎもんせんこくして、しょうせいはややかたく、こくはんみとめられたんかっしょくていする。(○23)はきぬがさけんぶすいていされる。じょぶひこうさすがそのぶぶんはくりする。ひょうめんにはたてほうこうよこほうこうちんせんによってくかくし、くかくかいあやすぎもんはいする。たいどく、しょうせいかたく、こくはんみとめられ、たんかっしょくていする。(○24)はおもて・うらめんとがりおびをもち、ひょうめんとがりおびはさらにとっしゅつする。

 以上のように宮の森古墳出土の埴輪はすべて破片で、完形もしくは完形に復元できるものはない。出土している埴輪は円筒埴輪・朝顔形と、形象埴輪である家・推定草摺形・衣蓋である。家形埴輪は屋根構造から二固体以上は存在しており、主体部の上に主屋・副屋として他の形象埴輪とともに配置されていたと理解される。普通、斜面の円筒埴輪列を配する部分は平坦面になっており、当古墳も墳丘は二段に築かれていたと考えられる。

 いじょうのようにみやのもりしゅつどはにわはすべてはへんで、かんけいもしくはかんけいふくげんできるものはない。しゅつどしているはにわえんとうたにわ・あさがおがたと、けいしょうはにわであるいえ・すいていくさずりがた・きぬがさである。いえがたはにわやねこうぞうから2こたいいじょうそんざいしており、しゅたいぶうえおもや・そえやとしてほかけいしょうはにわとともにはいちされていたとりかいされる。ふつうしゃめんえんとうはにわれつはいするぶぶんへいたんめんになっており、とうこふんふんきゅう2だんきずかれていたとかんがえられる。

参考:湖南市東海道石部宿歴史民俗資料館に展示物があります。(アクセスhttp://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=1694)

201010204
 宮の森古墳の意義 古墳の築造時期については円筒埴輪群の特徴から、古墳時代中期の5世紀前半に比定される。それは首長墳として最も盛行する時期のころで、この時期に同規模の古墳が存在しないことから、宮の森古墳の成立は野洲川流域の政治的動向と密接にかかわるものと考えられる。5世紀前半、宮の森古墳を中心にひとつの政治的な統一が行われていたと推定される。しかし、それには野洲川流域における集団相互の横の系列化を解明する必要があり、さらに石部地域では前記にさかのぼる古墳は今のところ確認されておらず、中期になって出現する当古墳の基盤となる集団の勢力を何に求めるかを追求する必要がある。そこには、石部地域一帯での集落遺跡を中心とする遺跡を数多く見出し、その性格を明らかにしなければならない。ともあれ、当古墳の築造は大和政権への服従関係と権威の象徴であり、その支配地域は自らの共同体の範囲をはるかに超えたものであった。

 みやのもりこふんいぎ こふんちくぞうじきについてはえんとうはにわぐんとくちょうから、こふんじだいちゅうき5せいきぜんはんひていされる。それはしゅちょうふんとしてもっとせいこうするじきのころで、このじきどうきぼこふんそんざいしないことから、みやのもりこふんせいりつやすがわりゅういきせいじてきどうこうみっせつにかかわるものとかんがえられる。5せいきぜんはんみやのもりこふんちゅうしんにひとつのせいじてきとういつおこなわれていたとすいてされる。しかし、それにはやすがわりゅういきにおけるしゅうだんそうごよこけいれつかかいめいするひつようがあり、さらにいしべちいきではぜんきにさかのぼるこふんいまのところかくにんされておらず、ちゅうきになってしゅつげんするとうこふんのきばんとなるしゅうだんせいりょくなにもとめるかをついきゅうするひつようがある。そこには、いしべちいきいったいでのしゅうらくいせきちゅうしんとするいせきかずおおみいだし、そのせいかくあきらかにしなければならない。ともあれ、とうこふんちくぞうやまとせいけんへのふくじゅうかんけいけんいしょうちょうであり、そのしはいちいきおのずからのきょうどうたいはんいをはるかにえたものであった。