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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部 ならじだいのいしべ

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第一節 地方制度の確立 ちほうせいどのかくりつ

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律令体制下の甲賀郡 りつりょうせいかのこうかぐん


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 甲賀郡の四郷 『延喜式』や『和名類聚抄』によると、近江国は東山道に属し、滋賀・栗太・野洲・蒲生・神崎・愛智・犬上・坂田・浅井・伊香・高島の12郡を管し、国府は栗太郡(現在の大津市大江)にあった。甲賀郡は「甲可郡」とも書いたが、『正倉院文書』では「甲賀」は「甲可」あるいは「甲加」とも表記し、『日本書紀』では「鹿深」とある所からみて、当時は「カフカ」と読んだと思われる。甲賀郡の名は、『続日本紀』天平十四年(742)二月五日条に、「この日、始めて恭仁京東北の道を開きて、近江国甲賀郡に通ず」とある記事が文献にみえる最初である。しかし、『日本書紀』天智天皇三年(664)条に「栗太郡」「坂田郡」、四年条に「神前郡」、八年条に「蒲生郡」など、近江の他の郡名があらわれるので、甲賀郡もまた律令的な郡(大宝令以前は「評」という)単位の行政区画が成立する7世紀後半のころには設定されたと考えてよい。

 こうかぐんのよんぐん 『えんぎしき』『わみょうるいじゅしょう』によると、おうみこくとうさんどうぞくし、しが・りっとう・やす・がもう・かんざき・えち・いぬかみ・さかた・あさい・いか・たかしま12ぐんかんし、こくふくりたぐんげんざいおおつしおおえにあった。こうかぐんこうかぐんともいたが、『しょうそういんぶんしょ』ではこうか「こうか」あるいはこうかともひょうきし、『にほんしょき』では「かふか」とあるところからみて、とうじは「カフカ」とんだとおもわれる。こうかぐんは、ぞくにほんしょきてんぴょう14ねん(742)2がつ5にちじょうに、「この日、始めて恭仁京東北の道を開きて、近江国甲賀郡に通ず」とある記事が文献にみえる最初である。しかし、『日本書紀』天智天皇三年(664)条に「栗太郡」「坂田郡」、四年条に「神前郡」、八年条に「蒲生郡」など、近江の他の郡名があらわれるので、甲賀郡もまた律令的な郡(大宝令以前は「評」という)単位の行政区画が成立する7世紀後半のころには設定されたと考えてよい。

 郡の下の行政区画は律令制では「里」であるが、霊亀元年(715)に里を「郷」と改め、郷の下部単位として、二~三の里を置いた。これを「郷里制」といったが、天平十二年(740)ごろ下部単位の里を廃し、郷だけとした。以後、行政区画は国・郡・郷と変わり、「郷」は律令制の「里」に相当する行政区画となった。『日本地理志料』は、老上郷の「老上」を「老土」の誤りと見て、中世の青土荘・岩室荘・伊原荘の区域(現在の土山町)、夏見郷を檜物下荘の区域(現在の石部町・甲西町)、山直郷を杣荘・佐治荘の区域(現在の甲南町・水口町南部・甲賀町西部)、蔵部郷(現在の甲南町・水口町・甲賀町西部)に比定している。また吉田東伍編『大日本地名辞書』は、夏見郷を石部・三雲、蔵部郷を寺庄・大原・油日、山直郷を伴谷・岩根・水口・柏木・大野の辺りに比定し、老上郷については未詳としながらも信楽谷および栗太郡田上谷の地をさすかと推量している。

 『日本地理志料』は、4郷の他に甲賀と信楽の2郷を補っている。それによると、甲賀郷は郡の役所たる郡衙(郡家ともいう)が存在し、甲賀氏の本拠地であって、柏木荘・嶬峨荘の区域(現在の水口町・甲西町東部)に、信楽郷は信楽荘の区域(現在の信楽町)に比定する。平城宮から出土した木簡などで知られる郷名が『和名類聚抄』に見えないこともあり、『和名類聚抄』の脱漏はあり得る。しかし、律令制の「郷」は人為的に編成した行政区画であって、実際の集落は「村」と表示したので、郷名の有無は決して集落の存否を意味しない。『日本地理志料』が甲賀・信楽の二郷を加えなくてよいと思われる。

 ただ、老上郷については検討の余地があろう。建武二年(1335)字薬師女なるものが「近江国甲賀下郡老上南郷檜物御庄内津久見西迫奥谷」の田一段を僧信性坊に売却し、永和二年(1376)河村直行なるものが「近江国甲賀下郡老上南郷(檜)物御庄内西迫常楽寺大門南脇」の田300歩を常楽寺に寄進した(「竹内淳一家文書」)。この「老上南郷」は律令時代の老上郷の遺称と考えられる。老上南郷とは老上北郷に対する地名であって、南北の境界は不明だが、少なくとも老上南郷は常楽寺がある現在の石部町大字西寺を含む地域をさす郷名であった。古代の老上郷は、甲賀郡の東部区域とか西南部区域ではなく、西北区域(現在の石部町・甲西町西北部)に位置したことになる。そうなると、現在の石部町は、律令時代には夏見郷に属したというより、老上郷に属したと考えられるのである。

 甲賀郡の4郷のうち、奈良時代の文献に現れるのは蔵部郷だけである。天平勝宝三年(751)に平城左京五条三坊の戸主従五位上安部朝臣島麻呂は、甲賀郡蔵部郷に所有していた墾田21町と野地(未開地)3町を、大和の弘福寺(川原寺ともいう)の大修多羅衆(経典研究集団)に銭230貫で売却した(『大日本古文書』)。阿倍島麻呂は、この時は右中弁兼侍従の官職にあって、後には参議正四位下にまで昇った中流の貴族だが、天平十五年(743)の墾田永世私財法によって、甲賀郡の蔵部郷に墾田と野地を私有していたのである。奈良の西大寺は宝亀十一年(780)当時、甲賀郡に朝廷から施入かれた栗林と、宇治鷲取というものが寄進したした墾田とを所有していたが、ともに「椋部」(蔵部)にあった(『西大寺資材流記帳』)。8世紀中ごろ、甲賀郡の東部に位置する蔵部郷では私的土地所有を展開する貴族や寺院の手で開発が進められていたのである。

 このほか、郷名ではないが、正倉院文書には二、三の地名が見える。天平宝字五年(761)の末から六年にかけて、造東大寺司(東大寺の造営を担当する宮司)は、保良宮の近くに石山院(現在の石山寺・滋賀県大津市)を造営した。その木材を供給した山作所(木材を伐採し製材する作業事務所、杣ともいう)のひとつが「甲賀山作所」である。石山院造営に関する記録によると、木材は「木本」(伐採製材の現場)から道に出し、「車庭」(車に積載する場所)から車に積んで、「三雲川津」へ運び、そこで桴に編み、野洲川を下り、琵琶湖から石山へ運漕された。「三雲川津」は、甲西町三雲の野洲川南岸にあたる。木本から車庭までは木材を荷なって日に3度、車庭から三雲川までは車に積んで日に4~5度、往復できる距離であったという(『大日本古文書』)。したがって甲賀山作所は、現在の飯道山にあったと考えられる。

 また、石山院の法堂は近江の国師(地方の僧官)法備が信楽にもっていた板殿を移築したものだが、「矢川津」より石山へ運漕された(『大日本古文書』)。この「矢川津」を甲南町深川市場に比定する説があるが(『甲南町史』)、矢川津は信楽町の中に求めるべきである。西大寺(奈良県奈良市西大寺町)は、栗林と墾田からなる「椋部庄」のほかにも、甲賀郡に二所の杣を領有したが、そのうちの一所は「緑道」にあっら。この「緑道」が現在のどこにあるか不明である。


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 甲賀郡の郡衙と豪族 甲賀郡の四郷(里)が律令制発足時にまでさかのぼるとなれば、郡の等級は下郡(7~4里)であった。下群の郡司は大領(長官)・少領(次官)・主帳(主典)各一名が任じられ、郡衙で執務していた。『日本地理志料』は、前述のとおり甲賀郡衙の所在地として「甲賀郷」を想定していたが、積極的な根拠はない。『滋賀県史』は郡衙を「岩根・水口の中に求むべきであろう」というが、これまた推測の域を出ない。『水口町史』や『甲南町史』などは、甲賀郡衙=甲賀駅の見解をとり、甲賀駅の所在地の比定を試みている。

 一般に郡衙と駅家の所在は一致もしくは近接する場合と、そうでない場合とがあり、一概に決められない。かりに前者のケースを想定しても、郡衙がすでに存在したであろう奈良時代の東海道の駅路は、平城京から山背国の南部を東行し伊賀国へ向かうルートをとり、伊賀郡には駅家は設けられておらず、平安時代に長岡京・平安京から近江国を通って伊賀国へ向かうルートに変わり、始めて甲賀郡に駅家が設けられたが、それも仁和二年(885)に「阿須波道」(土山から鈴鹿峠を越える)が開通するまでは、「倉歴道」(油日から柘植へ出る)が東海道の駅路であり、この駅路変更にともない甲賀駅が移動したと仮定し、郡衙も移動したと考えるべきかどうか、比定条件はこのように複雑になる。『延喜式』みよつと、甲賀駅には駅馬20疋、甲賀郡衙には伝馬5疋が配置されている。駅馬の管理、駅舎の運営などを考慮すると、駅家は郡衙に近く所在したと思われるが、ここでは郡衙の位置を駅家と切り離して推量しておきたい。そもそも郡衙は都の行政の中心地であり、律令制度が施行される以前の時代から郡内で最も発展を遂げていた地域に置かれた。甲賀郡内でそのような地理的にみて野洲川と杣川の合流する地帯と考えられる。すなわち旧貴生川村・柏木村・北杣川、現在の水口町西南部の辺りであろう。ここは両川の形成する沖積低地にして、早くより開けていた。もとより考古学的に郡衙跡の発掘が行われなければ断定できないが、一応この地域に想定しておく。

 ところで、甲賀郡の郡司になったのは、どのような氏族であろうか。前に引いた天平勝宝三年(751)阿倍朝臣島麻呂が弘福寺大修多羅衆へ甲賀郡蔵部郷の墾田野地を売った時の売買券に、甲賀郡の「擬大領外正七位上甲可臣乙麿」「少領無位甲可臣男」および「主帳無位川直百島」が署名している。擬大領・少領の甲可臣は、甲賀郡きっての名族であった。天平二十年(748)二月、甲可臣真束は、東大寺の大仏に銭千貫の「知識物」(仏事に協力し寄進する物)を献じて外従六位下より外従五位下に叙せられいる(『続日本紀』『東大寺要録』)。また、天平宝字六年(762)ころ、造東大寺司の番上(非常勤)大工で少初位下の甲賀深麻呂なるものが造石山院所で働いていた(『大日本古文書』)。少し時代は下るが、天暦十年(956)に「散位従七位上甲可公是茂」が追捕使(凶族を追捕する臨時の官)に任じられている(『朝野群載』)。

 甲賀(甲可)という地名は、河内国讃良郡に「甲可郷」、「志摩国英虞郡」に「甲賀郷」があるから、甲可という地名を負うている氏族は、近江の甲賀郡に居住した氏族であるとは断定できないが、右にあげた甲可臣や甲可公は、明らかに甲賀郡は、近江の甲賀郡に居住した氏族である。しかし、古代の氏族分布は必ずしも一郷一郡に局限されているのでなく、かなり広範に散在することもある。たとえば、甲賀郡の主帳をつとめる川直百島と同姓の川直鎧なるものが高島郡高島里に住んでいた(『大日本古文書』十五巻七十五頁)。甲可臣や甲可公のような譜代の名族は、郡衙の所在する郷にのみ居住したと見るよりも、全郡域にわたって繁延し、さらには郊外へも進出していたと考えたほうがよい。

 このほか、仁徳朝に阿智王(阿知使王)のあとを追って渡来した漢人の中に「甲賀村主」、阿智王の後裔に「夏見忌寸」という氏族がいた(『坂上系図』)。甲賀村主や夏見忌寸らは、その姓に負う地名から推して、甲賀郡内に住み着いたと思われる。阿智王を祖先とする東(倭)漢氏は、5~6世紀に渡来した技術者たちを「新漢人」として配下に入れたが、そうした新漢人の一端をになう甲賀村主や夏見忌寸らは、甲賀地方の開発を進め、大陸文化をこの地方に伝えたのである。