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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部

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第一節 地方制度の確立

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律令政治の展開


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 彷徨する宮都 近江国や甲賀郡に関連する事項を中心に、律令政治の流れを摘紀していこう。和銅元年二月、律令国家は貨幣の鋳造するため、鋳銭司を置いた。これが皇朝十二銭の最初の「和銅開珎」である。まず五月に銀銭を発行し、七月には近江国で銅銭の鋳造を開始したのである。和同開珎を鋳造したと伝える場所は、残念ながら確定できない。

 和銅三年(710)三月に平城京へ遷都し、律令国家は繁栄期を迎え、絢爛たる天平文化が開花する。しかし、華やかな文化とはうらはらに、政局は目まぐるしく変わり、混迷をきわめた。聖武天皇は、天平十二年(740)九月、九州で勃発した藤原広嗣の乱に衝撃を受け、突如として東国への行幸に発し、伊勢で乱の平定を知ったが、そのまま伊勢から

美濃に向かい、さらに近江に入った。近江国では十二月六日に坂田郡の横河頓宮にいたり、犬上頓宮(七日)、蒲生郡(九日)、野洲頓宮(十日)を経て、十一日に志賀郡の禾津頓宮に着いた。天皇は崇福寺(大津市)に参詣したあと、山背国に入り、十五日恭仁に至り、この恭仁宮に遷都することになった。

 恭仁遷都の後、天平十四年(742)二月、恭仁から東北の方向に近江国甲賀郡へ通じる道が開かれ、八月に天皇は甲賀郡紫香楽村に離宮(紫香楽宮、信楽町雲井に遺址がある)を造営し、しばしば紫香楽宮に行幸し、次第にその滞在期間は長くなり、翌十五年(743)九月には甲賀郡の調・庸は「畿内に准じて」収めることにした。すなわち甲賀郡の庸は免除、調は半分に減じたのである。また当年の田租も免じている。十月には有名な盧遮那大仏造立の詔を発し、東海・東山・北陸三道の二十五ヶ国の調・庸をこの紫香楽宮へ貢納させ、いよいよ紫香楽宮は帝都のような観を呈するに至った。しかし、天皇は難波へも行幸し、宮都は恭仁・難波・紫香楽を彷徨した。天平十六年(744)十一月には甲賀寺において盧遮那大仏の体骨柱が建ち、天皇がこれに臨んで自らその縄を引いたが、このころ紫香楽宮の近辺で山火事が頻発し、地震また連続して起こるという事態のなかで、ついに天平十七年(745)五月、平城京に遷都し、紫香楽の大仏造営は停止されたのである。


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 仲麻呂の乱 孝謙天皇のもとで権力をにぎった藤原仲麻呂は、天平宝字元年(757)七月、橘奈良麻呂ら反対勢力を一掃し、その翌年八月、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位すると、専権体制を確立した。同三年(759)十一月から近江の保良宮(大津市国分の付近)の造営にとりかかり、同五年十月に「遷都」の準備をととのえ、孝謙太上天皇と淳仁天皇は保良宮に行幸した。近江国などの田租を免じ、曲赦(近江一国に限定した大赦)を行い、保良宮を「北京」と称し、近都の両郡(志賀・栗太)は「畿県」として庸を停め、調を半減した。保良宮(北京)の造営は平城宮改作のためにしばらく移ることが名目であったが、仲麻呂の意図は元来藤原氏と関係の深い近江に宮都を営み、事故の権力を揺るぎないものにすることにあった。東山・北陸二道の要衝である近江国をおさえることは、経済的・軍事的に優位に立つことを意味する。ところが、天平宝字六年(762)五月、孝謙太上天皇と淳仁天皇はともに保良宮を去って平城京にもどり、道鏡を寵愛した太上天皇とそれを非難する天皇の間は決裂した。そこで天皇側に立つ仲麻呂は、権力を集中して太上天皇側に対抗しようとはかったが、やがて孤立化をまねき、同八年九月、ついに反乱を起こした。

 緒戦に失敗した仲麻呂は近江に逃げたが、先回りをした官軍に勢多の橋を焼き落とされ、進路を湖西にとって北上し、越前に入ろうとした。官軍は湖東を走り越前国府をおさえ、愛発関の突破を固めた。仲麻呂軍は進路を失い、塩津に向うが、逆風にあい、再び陸路をとって愛発関の突破をかった。しかし撃退され、やむをえず湖西を南下したところ、高島郡の三尾崎で北上してきた後続の官軍と戦って敗退し、斬首されたのである。

 延暦三年(784長岡京へ、ついで延暦十三年(794)平安京へと遷都によって、近江国および甲賀郡はいよいよ重要性を増した。東海道が近江を通るルートに改まり、東山道と東海道は、逢坂を越え瀬田川を渡り、近江国府を経て、栗太郡の梨原郷(現在の草津市)あたりで分岐した。東山道は湖東を北上し、東街道は甲賀郡から伊賀国へと向ったのである。まさに平安時代の近江は都の東方の<関門>の位置を占めた。