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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部

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第二節 交通路と条里

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古代東海道の変遷


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 甲賀郡を走る大動脈 湖南は全国的に見ても交通の要所として注目される地域である。現在においても、大津を過ぎ瀬田川を渡ると、北から順にJR海道本線・国道一号線・新幹線・名神高速道路が短い間隔で平行して走っており、その位置の重要性がうかがえる。

 古代における官道は、多くの場合きわめて計画性をもち、最短距離を直線的に進み、地方官衙を結ぶ幹線道路として重要な機能を果たしていた。地域計画の根幹として、条里や官衙配置の基準として重要視され、現在の高速道路以上にその依存度が高かったものと考えられる。そのような意味において東海道が通る甲賀郡は、大和・山城・伊賀・伊勢の諸国を結び、さらに東国へ通ずる大動脈として重要な地域であった。

 このため、この地域の古代交通路については多くの研究が行われた。足利健亮・服部昌之両氏をはじめ、最近では小林健太郎・高橋誠一・野間晴雄ら三氏の共同研究がみられる。本節もこれらの論に負うところが多い。


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 倉歴道 まず、古代の東海道の変遷を概観しておくことにする。初めて石部に古代の東海道が通過するようになったのは、天智天皇六年(667)の大津京が完成した後のことである。それ以前の東海道は、都があった飛鳥を出発し、伊賀名張から伊賀盆地を北上し、柘植を経て、東国へと向かっていた。

 大津京時代の東海道は、草津市付近で東山道と分かれ、甲賀郡を抜けて柘植付近で旧道に連なっていた。この道は、『日本書記』に書かれた壬申の乱の記事にある鹿深(甲賀)を通るもので、「倉歴道(くらふのみち)」と記されている。大津京にいた高市皇子が大海皇子と「積殖山口(三重県阿山郡伊賀町付近)」で合流する時に通ったのは、この道であった。しかし、六年といった短命で廃都となった大津京とともに、倉歴道も官道としての東海道の役目を終わることになる。

 東海道がその地位をとり戻すのは、延暦三年(784)に都が長岡京に移ってからのことである。この時期以降、近江には再び東海・東山・北陸の三道が通過するようになった。この三つの官道は、条里地割に関連し、多くの場合計画的・直線的な官道であったと考えられている。おそらく、この時期の石部付近の東海道も、大津京時代の倉歴道に比べ、より整備された計画的なものであったことが推定される。このように、東海道の変遷とそれに関連した条里地割の施工は、古代の甲賀郡の地域構造に大きな影響を与え、近江国の中でも特色のある地域の形成に貢献したものと思われる。