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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部

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第二節 交通路と条里

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石部町域の条里型地割


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 地籍図にみる条里型地割 石部町域では、野洲川流域の沖積平野部に連続的な条里型地割がみられる。条里制地割とは、古代の条里制に基ずいて計画された水田の区画のことである。一町(約109m)方格の坪区画を単位とする。またその内部は、30×12歩で一段をなす半折型と、60×6歩で一段をなす長地型とに分類される。坪が36個(6×6町)で「里」を形成し、1坪から36坪までの通し番号がつけられる。その配列(坪並)も平行式と千鳥式とがある。さらに、この「里」の位置を示すために、条と里を郡単位に設定し、基点から数字を冠して進み、座標軸のように組み合わせて、土地の所在を示したのである。これらの区画は現在もなお地表に認められる。それが条里型地割と称されるものである。

 図29は、空中写真と2500分の1の地図を基本図として、明治初年に作成された地籍図から、当時存在した地割を付け加えたものである。これによって、近代に改変された条里型地割も再現したことになる。また同図には、土地の高低との関係も示した。この図をもとに現在の条里型地割の計測を行った。

 石部町の条里型地割を検討すると、現在の地表面に残る方格地割(坪)の平均長さは、南北111m、東西109mで若干南北方向が長くなっている。この長さは、畦畔・水路を含み、その中心を基点として計画したものである。その場合、南北方向は畦畔、東西方向は水路によって区切られており、一般に水路の幅が広いので、こちらの方が若干長い。これは、地形をたくみに利用した灌漑との関係によるものである。南北方向に水路を通すと野洲川に直接流れ、灌漑面積が限られるのたいし、東西方向は土地の傾斜に合わせてスムーズな灌漑ができるので、その方向に配置したものと考えられる。また、現在残る条里型地割の分布は、中位段丘の末端付近から始まっており、それより北方の灌漑が比較的容易な地域に広がっている。

 つぎに、方格地割内部の地割形態を検討すると、甲西町域では典型的な半折型のものがみられるが、石部町域では類似したものはあっても、典型的なそれはみあたらない。すなわち坪区画は、一町方格に区切られているが、その内部地割は不規則なものが多い。また、野洲川に近づくほど、その一町方格も乱れを生じている。これは野洲川と、天井川である落合川・宮川の氾濫に原因があると考えられる。野洲川は甲賀郡と栗田郡の境界付近では、幅200mほどの狭隘部を通るため、その上流部でバック・ウォーターによる洪水を起こしたのである。また、天井川である落合川・宮川は、上流部の禿山から大量に流出する土砂の影響によって洪水を起こしたのである。これらの地域では、条里が他事割はみられない。

 「土地条件図」によると、野洲川の沖積平野はⅠ・Ⅱの二面に分類されているが、これは土地開発の進展や灌漑水利と対応しているように考えられる。すなわち、Ⅰ面は条里型地割が分布しており、落合川の直接灌漑と池掛り地域である。これに対し、Ⅱ面には、空中写真から多数の旧流路がみられ、近世の新田開発地域にあたる。また灌漑は、主に中世以降築かれた水路にその養水を基めている。

 条里型地割は、一般的には正方位のものが多いが、地形に対応して傾く場合もみられる。石部町の条里型地割の方向は、東に約34度傾いている。これは、甲賀郡域に広がる条里型地割の傾きとほぼ一致しており、さらに野洲・栗太両郡とも共通する。このことから三郡の条里型地割は、ほぼ同時代に施行された可能性が高いと考えられる。

 しかし、条里型地割の坪界線は、甲賀郡と栗田郡とでは、その線を延長してみると、両郡間で45mほどのずれを生じている。また、栗太郡と野洲郡の郡界線において、両郡の里界線に一町のずれがみられる。これらのことから、条理区画の設定は郡単位に施行されたと推定できる。


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 史料にみる呼称 甲賀郡域の条理史料としては、近江国の中で三番目に古い天平宝字二年(758)の「近江国司牒」がある(「東京大学史料編纂所報」第十九号)。これには、蔵部郷の「廿七条廿六上山本田九十歩」が記されている。このことから、少なくとも八世紀中ごろには、条里型地割が存在していたことが推定される。

 現在の地名には、条里呼称に関連するものはなく、条里呼称方法は不明な点が多い。『滋賀県史』には、「條は郡の北西境に起こって南北に進み、里は石部町の南方から東北に進んだ如く見える」とある。これまでの甲賀郡内の町史や、前述の諸研究もすべてこれを踏襲している。特に小林・高橋・野間氏らは、この説の妥当性を史料の現地否定などによって認めている。

 石部町域に関する条理史料としては、貞和五年(1349)の西寺に関するものがあるにすぎない。これには、常楽寺に「合参反者二百歩三条二里廿七坪」が寄進されたことを記している(『竹内淳一家文書』)。

 この「三条二里」を、小林・高橋・野間氏らの論文の計測方法にしたがって比定すると、西寺の山地に位置することになる。もし、小林・高橋・野間氏らの設定した南北方向の条の基準を東に一町ずらすならば、西寺の現在耕地が広がる平地部分にあたる。この付近及び東寺には、断片的ではあるが、やや規則的な地割がみられる。もちろん、このことをもって西寺・東寺付近に条里地割が施行されたとは断定できない。しかし、この付近には常楽寺・長寿寺の古代にさかのぼる名刹が存在しており、開発は古い。小林・高橋・野間氏らの論文もふれているように、たとえ条里型地割がみられなくとも、呼称法だけが用いられたと考えられる。

 甲賀郡域の条里呼称法は、史料が少なく正確なことはいえない。しかし、『伊賀県史』や小林・高橋・野間氏らの論文と同じく、条が北西から南東へ、里が南西から北東へと進む呼称法は妥当なように思われる。

 もし、条・里の呼称法が右のようであれば、それは足利氏が明らかにした琵琶湖周辺のそれとは異なる。図30のように、湖東では条は西北から東南へ、湖西では、南から北へと、琵琶湖を中心に時計まわりを原則としている。このように甲賀郡の場合は近江の一般的な呼称法と異なるが、その解釈は今後の課題である。