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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部

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第二節 交通路と条里

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古代東海道のルートと条理の諸問題


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 ルートをめぐる諸説 古代の東海道のルートについては、前述したように、足利・服部の両氏、及び小林・高橋・野間氏らの三説がある。図31は、そのルートを示したものである。

 足利氏は、条里型地割を重視し、栗太郡では図のA点で東山道と分かれ、条里型地割と一致するA~B~Cのルートを示した。また、そのルートが小字「小大道」の畦畔に乗ることもあげた。甲賀郡では、そのルートの延長線上の五軒茶屋のE~Fの直線的道路に注目し、さらには、近世の東海道H~Iに連なることから計画的道路を推定した。また、D~E~F~Gが、野洲川の攻撃面をさけてバイパスとして通過する可能性を指摘した。このうち、栗太郡のコースについては、あとでふれるように、つぎの服部氏の説に関連して再論されている。

 服部氏は、栗太郡では、現在主にみられる東に33度傾く条里地割と異なる手原の正方位の条里に注目し、①~②~③のルートを推定した。さらに、栗太・甲賀の郡界付近にあたる狭隘部を通過し、甲賀郡を通過し、甲賀郡では、条理が東海道のルートを基準として設定された可能性を指摘した。

 これに対し、小林・高橋・野間氏らは、狭隘部について足利氏の五軒茶屋のD~E~F~Gのルートの可能性を残しながらも、主であったのは、野洲川づたいに通過し、条理地割と一致するD~G~④~⑤のルートを推定している。

 以上のように古代の東海道のルートは、条里との関係をめぐり諸説がある。これらのうち、栗太郡では、足利氏のはじめの説と、服部氏の推定ルートとは異なっている。前述のように、これについて再検討した足利氏は、古代の官道が直線的に進むのがひとつの特徴であることから、それにしたがう服部氏のルートをほぼ認め、さらに、それは長岡京時代の東海道であるとともに、大津京時代のルートである可能性も指摘している。

 石部町の条里型地割を検討すると、現在の地表面に残る方格地割(坪)の平均長さは、南北111m、東西109mで若干南北方向が長くなっている。この長さは、畦畔・水路を含み、その中心を基点として計画したものである。その場合、南北方向は畦畔、東西方向は水路によって区切られており、一般に水路の幅が広いので、こちらの方が若干長い。これは、地形をたくみに利用した灌漑との関係によるものである。南北方向に水路を通すと野洲川に直接流れ、灌漑面積が限られるのたいし、東西方向は土地の傾斜に合わせてスムーズな灌漑ができるので、その方向に配置したものと考えられる。また、現在残る条里型地割の分布は、中位段丘の末端付近から始まっており、それより北方の灌漑が比較的容易な地域に広がっている。

 つぎに、方格地割内部の地割形態を検討すると、甲西町域では典型的な半折型のものがみられるが、石部町域では類似したものはあっても、典型的なそれはみあたらない。すなわち坪区画は、一町方格に区切られているが、その内部地割は不規則なものが多い。また、野洲川に近づくほど、その一町方格も乱れを生じている。これは野洲川と、天井川である落合川・宮川の氾濫に原因があると考えられる。野洲川は甲賀郡と栗田郡の境界付近では、幅200mほどの狭隘部を通るため、その上流部でバック・ウォーターによる洪水を起こしたのである。また、天井川である落合川・宮川は、上流部の禿山から大量に流出する土砂の影響によって洪水を起こしたのである。これらの地域では、条里が他事割はみられない。

 「土地条件図」によると、野洲川の沖積平野はⅠ・Ⅱの二面に分類されているが、これは土地開発の進展や灌漑水利と対応しているように考えられる。すなわち、Ⅰ面は条里型地割が分布しており、落合川の直接灌漑と池掛り地域である。これに対し、Ⅱ面には、空中写真から多数の旧流路がみられ、近世の新田開発地域にあたる。また灌漑は、主に中世以降築かれた水路にその養水を基めている。

 条里型地割は、一般的には正方位のものが多いが、地形に対応して傾く場合もみられる。石部町の条里型地割の方向は、東に約34度傾いている。これは、甲賀郡域に広がる条里型地割の傾きとほぼ一致しており、さらに野洲・栗太両郡とも共通する。このことから三郡の条里型地割は、ほぼ同時代に施行された可能性が高いと考えられる。

 しかし、条里型地割の坪界線は、甲賀郡と栗田郡とでは、その線を延長してみると、両郡間で45mほどのずれを生じている。また、栗太郡と野洲郡の郡界線において、両郡の里界線に一町のずれがみられる。これらのことから、条理区画の設定は郡単位に施行されたと推定できる。


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 条里地割に一致するルート 甲賀郡については、服部氏は東海道が甲賀郡の条里の基準となっていると指摘するにとどまっていたが、小林・高橋・野間氏らはそのコースを具体的に推定した。これらの論にしたがって東海道のルートを図31でおってみよう。

 栗太郡から甲賀郡へのルートは、①~②~③~④~⑤のルートとなる。これは石部町から甲西町にかけての中位段丘の末端付近を、野洲川の攻撃面を避けて、最短距離を直線的に進むルートである。また、このルートに接近して、甲西町大字柑子袋に足利氏が指摘した古代における郷の正倉と関連した字「蔵町」が存在する。この「蔵町」は甲西町と石部町の現行政境界に接している。さらにこの地域は、栗太と甲賀の郡界にあたる狭隘部と、現在の甲西町と水口町の狭隘部の間に広がる石部平野のほぼ中央部に位置する。このことからこの字「蔵町」付近が、古代の郷の中心地であった可能性が高い。

 このように、甲賀郡を通過した東海道と条理地割は密接な関係にあり、多くの部分で条里型地割に一致しているように考えられる。また、石部町域の条里型地割は、甲西町とともに甲賀郡域では、広域的に残っており、開発が早くから行われていたことを示している。

 近年、圃場整備や宅地開発にともない、滋賀県下の条里型地割は消滅しつつあるが、石部町域には方一町区画がなお残存し、古代景観の一部をみることができる。