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古代の石部


202000000 第二章 奈良時代の石部

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第三節 古寺と阿星山寺

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式内社と山岳寺院


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 律令制の祭祀 律令制における国家祭祀は、春夏秋冬の四時に行う「四時祭」と、そのほか臨時に行う「臨時祭」に大別される。四時祭のうち最も多くを占めるのは、二月の祈年祭と六月・十二月の月次祭と十一月の新嘗祭であった。祈年祭は神祇官が祭る神社(官弊社)と国司の祭る神社(国弊社)とに分かれる。官弊社とは、神祇官から幣帛をわかつ大社304座・小社433社をいい、大社は月次祭と新嘗祭にも班幣される。国弊社とは、国司から幣帛をわかつ大社188座・小社2,207座をいう(大社小社の処遇差は不詳)。

 祈年祭の官幣・国幣にあずかる諸社(官社)の名を書き上げたものが『延喜式』の「神名帳」で、これに登載された神社を「式内社」とも呼ぶ。近江国の式内社は、大社13座・小社142座である。このうち甲賀郡は、矢川神社・水口神社・石部鹿塩上神社・川田神社二座(大社)・飯道神社・川枯神社二座・小社六座の合わせて八座をあげている。

 現在、式内社の矢川神社は甲南町森尻にある矢川神社、水口神社は水口町宮ノ前にある水口神社、飯道神社は信楽町宮町の飯道神社にあたると考えられる。川田神社は土山町頓宮の川田神社、甲西町正福寺の川田神社、水口町北内貴の川田神社の三説が存し、川枯神社は所在不明である。石部鹿塩上神社は、「柏木村」の「八幡社」、現在の水口町北脇の柏木神社であるという説(『神名帳考証』)と、「石部駅」の「吉比女明神」、現在の石部町の吉姫神社であるという説(『神社覈録』『特選神名帳』)の二説が存するが、あとで詳論するように後者が正しいと思われる。

臨時祭では名神祭が多く行われた。名神祭とは、国家の災異・事変などに際して、諸国の神社を選んで奉幣する祭祀であり、名神祭にあずかる神社をいうが、地方において崇敬顕著な神社であったとみられる。式内社の大社のうち、「名神」と注記する306座(臨時祭式では285座)が名神社であり、近江国では12座、甲賀郡では川田神社二座が列せられている。

律令制の最大の祭祀は大嘗祭である。天皇が即位後初めて新穀をもって高祖および天神地祇をまつり饗する儀式をいい、一世一度の「大祀」であって、毎年行う新嘗祭とは区別する。天皇に神聖性を付与する秘儀でもあるので、実質的な即位式だといわれている。この大嘗祭に用いる神饌は、あらかじめト定した悠紀・主基の国郡に産する新穀をあてた。悠紀・主基にト定された国郡は、10世紀から11世紀ごろに、悠紀は近江、主基は丹波・備中が交互にと、まったく固定するに至った。

近江が悠紀国にト定された最初は天長十年(833)仁明天皇の大嘗祭のときで、仁和三年(877)宇多天皇の大嘗祭からは悠紀国はつねに近江となった。なかでも甲賀郡は、後一条天皇の長和五年(1016)の大嘗祭で悠紀にト定されている。


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 石部鹿塩上神社 現在の石部町にある吉姫神社と吉神子神社は、ともに式内社の石部鹿塩上神社の後身で、同社が後世に分かれたものだと伝える。『東海道名所図会』に「石部鹿塩上神社。駅中田間に鎮座す。延喜式内なり。今両社として下の社を吉彦明神。上の社を吉姫明神、土人虚空蔵と称す。祭神倭姫世紀に見えたり」とあり、『神祇志料』もまた「石部鹿塩上神社。今石部駅にあり。上下両社とす。上を吉姫明神、下を吉彦明神という。即駅中の生土神也」という。

 式内社がのちに吉姫・吉御子(彦)両社となったとみるのに対して、どちらか一方に比定する考えもある。『神社覈録』には「石部鹿塩上神社。石部鹿塩は伊志倍加志保と古点あり。上は加美と訓べし。祭神吉比女、檜物荘石部駅に在す。今は吉比女明神と称す」とあって、石部鹿塩上神社は吉姫神社だけをさすとする。また、吉御子神社も、もとは谷村の「黒之御前」にあったが、弘仁三年(812)いまの「宮山」に移転し、これが式内社の石部鹿塩上神社であるという社伝をもつ(『甲賀郡志』)。

 それでは、式内社の石部鹿塩上神社は現在の吉姫神社と吉御子神社のいずれにあたるのであろうか。『近江與地志略』が、石部にある神社として、「吉御子大明神社」と「上田大明神社(吉姫神社の別称)」をあげながら、後者にのみ「神名帳に載せる所の、甲賀郡八座の中の、石部鹿塩上の神社と云是なるべし」と注記するのは、式内社の後身が吉姫神社とする説を支持していることを示している。『吉姫神社誌』が、『神社覈録』や『特選神名帳』の所説を引用しながら、石部鹿塩上神社の「上」とは、もとは上下両社あって、野洲川の川上の石部鹿塩上神社は吉比女をまつり、川下の石部鹿塩下神社が吉比古をまつり、上社だけが祈年祭の奉弊にあずかって、下社は祈年祭の奉弊にあずからなかったので神名帳に記されなかった。と推論するのが妥当な見解であろう。

 石部鹿塩下神社が祈年祭奉幣の例に加えられなかった理由を想定することは困難だが、石部鹿塩上神社=吉姫神社、石部鹿塩下神社=吉御子神社となれば、両社の創祀はすくなくとも律令時代にさかのぼることができよう。上下社の祭神である吉比女・吉比古のことは、『東海道名所図会』が指摘するとおり、『倭姫命世紀』に見える。しかし、それは倭姫命が皇大神(天照大神)を伊勢へ遷座する途中、阿佐加藤方片樋宮に斎き奉る時、阿佐加々多(阿佐加潟)に「多気連の祖、宇加乃日子の子、吉志比女、次に吉比古二人参り相いき」とあり、吉比女・吉比古が倭姫命に会ったのは、伊勢国壱志郡の阿佐加(今の松坂市大阿坂・小阿坂付近)であった。吉比女・吉比古が倭姫命のもとに参向したのは、「淡海甲可日雲宮(甲西町三雲か)」に遷座した時の話ではなく、また多気連は伊勢国多気郡の豪族であるから、石部鹿塩の上下社と倭姫命伝承を結びつけることは難しい。強いて関係づけるとなるれば、多気連の租神・宇加乃日子につらなる吉比女・吉比古を奉祀する氏族が石部に居住していたとだけ考えられるのである。


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 阿星山寺 奈良時代の寺院は、名称の用法から大別すれば、「寺」「堂」「山寺」の三種となる。第一の「寺」は、天皇の発願あるいは国家の造営になる官寺および貴族・豪族が壇越となる氏寺が多く、平城京や国府・郡衙に建てられた。第二の「堂」は、貧しき庶民の合力もしくは富裕な農民の手になる仏堂だけの簡素な寺院で、たいてい村里に建てられた。第三の「山寺」は、僧侶が専ら修行する場所に営まれ、俗界を離れた閑寂な山中に建てられた。奈良仏教といえば、天平の華やかな仏教文化を開かせ、輪奐の美を競った官寺や氏寺などの「都府の寺院」に目を奪われやすいが、山林に入って真摯な修行を積んだ僧たちの痕跡をとどめる「山兵の寺院」の存在も軽視できない。

 律令制下では、僧侶の山林修行は宮司の許可を要した。養老二年(718)天平宝字八年(764)の山林修行禁令からうかがうと、山林修行は、その神秘性と呪術性が人心を惑わす恐ろしい「邪法」に転化しやすく、国家はそれを禁じてたにすぎない。逆にいえば、僧尼が自己研鑽の純粋な禅行修道を目的にした場合は、これを「清行」とか「浄行」といい、そこで体得された法力に期待し、かれらを「禅師」と尊んだ。南都六宗の難しい教義を解する学力もまた山林修行で涵養されるといわれ、官大寺の学僧は都府を離れて深山に籠ったのである。

 奈良時代の山岳院は、吉野の比蘇寺は元興寺・大安寺と、室生山寺は興福寺というように、平城京からの往還にほどよい距離にあって、かつ官大寺と別院のような関係をもっていた。平城京の北方に位置する近江南部の山岳もまた山林修行の適地であったことは想像に難くない。聖武天皇が廬遮那仏の造顕を紫香楽で開始したこと、大仏殿等の建築に甲賀郡や栗太郡の杣から木材を切り出したことなど、東大寺と甲賀・栗太両郡の山岳地帯は関係が深かった。東大寺の造営に尽力し、初代の別当となった良弁僧正と、金粛菩薩と称する修行者――良弁は金粛菩薩の異称をもつので、金粛菩薩も良弁のことをさすと考えられるが、『興福寺官務牒疏』の諸寺開創伝承によれば、金粛菩薩は良弁とは別人で、文武・元明・元正朝(697~724)に活躍している――を開山とする寺院が近江では湖南地方の山腹・山麓に多い。石部町の阿星山寺はそのひとつである。

 元明天皇の和同年中(708~715)、金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)の霊地を開き、初めて仏門弘道の精舎(寺院)を建て、数字の殿堂を構え、僧坊が甍を並べ、阿星寺と号したが、魔風のため火災にかかり、本尊の千手千眼観音像は常楽寺に飛んで来たという(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)。今日、山腹にある「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づける寺院遺跡は、往時の阿星寺の一部であろう。

 また、『栗太郡志』所引の「金勝山大菩提寺流記」によると、伊富貴(伊吹)の麓に補陀・名超・日光・松尾の四ヶ寺を開いた名超童子(三周沙門ともいう)は、阿星寺に住み霊験を示したが、いわれない理由で殺害され、大同四年(809)七月十四日に没した。その後、名超童子は大悪霊となり、金勝寺(栗東町荒張)に敵視し、弘仁二年(811)正月一日に同寺を滅亡させた。再興のあともなお危害を加えるので、大講堂の後戸に名超童子をまつり、長日不断にその菩提をとむらい、害心を散らしめたという。

 阿星山の西方へ峰が続く竜王山の中腹にある金勝寺は、大菩薩寺と称し、養老元年(717)金粛菩薩の開創と云える(『興福寺官務牒疏』)。寛平九年(897)の太政官符によれば、金勝寺の古跡をたずねるに、むかし金粛菩薩と号する「応化の聖人」がいて、朝廷の尊崇と庶民の帰依をうけたが、金粛菩薩の没後は興福寺の願安がこの山に入り修行し、弘仁年中(810~824)に伽藍を建立したとある(『類聚三代格』)。金勝寺の金粛菩薩開創の伝承はかなり早い時点で成立していた。

 金粛菩薩と名超童子は、山林修行者を偶像化した架空の人物であろうが、開創期に登場する人物が共通することから、阿星寺と金粛寺はその歴史において密接な関連性をもっていたと考えられる。『興福寺官務牒疏』にのべる諸寺開創の伝承で、金粛菩薩が開いたとする主な寺院は、観音寺(金勝寺東北隅、現栗東町観音寺)・少菩提寺(甲賀郡檜物郷)・正福寺(甲賀郡花園里、現甲西町正福寺)・薬王寺(甲賀郡池原荘、現水口町三大寺)などである。観音寺は阿星山西中腹、少菩提寺は菩提寺山東麓、正福寺は岩根山南麓、薬王寺は飯道山東中腹にそれぞれ位置した。このように竜王山・阿星山・飯道山連峰の山腹および野洲川対岸の山麓に金粛菩薩開創の寺院が点在することは興味をひく。その中核が地理的にいえば阿星寺なのである。

 ところで、金勝寺の別称「大菩提寺」に対する「少菩提寺」は般若台院とも号したが、天暦元年(947)の太政官符に「金粛菩薩の霊応地なり」とあって(『甲賀郡志』)、右にみた各寺の金粛菩薩開創の伝承は平安時代には広く定着していたと思われる。伝承を歴史事実を断定することは躊躇するが、おそらく奈良時代の前半のころから、平城京の官大寺の学僧や無名の修道者たちが近江南部の山岳に入り、峰や谷の閑寂な所に道場(山寺)を営み、精進連行した。かれらは金粛菩薩を開祖と仰ぐ山林修行者の集団をなしたのであろう。そして紫香楽宮が造営された聖武天皇のとき、宮都の北や西の山岳に存在したこれらの山寺は、王城鎮護の役割を与えられて“公的”な寺院となったに相違ない。

 阿星寺の由緒をひく石部町東寺の長寿寺と西寺の常楽寺が、「もと聖武帝信楽宮に遷都の時、鬼門守護の寺なり」といわれるのは(『東海道名所図会』)、阿星寺の存在を抜きにしては考えられない。奈良時代の阿星寺は隆盛をきわめ、金勝寺は衰退したが、平安時代になって興福寺の願安が金勝寺を復興すると、やがて金勝寺の勢力は阿星寺をしのぎ、いっぽう阿星寺は火災をこうむって次第に衰微に向ったのか、阿星寺と金勝寺の盛衰を示すのが名超童子の話であろう。