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古代の石部


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第三章 平安時代の石部

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第一節 荘園の成立

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律令制の変容


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 班田制の廃絶 律令国家は、班田収授の法を基礎に人民支配を行ったが、すでに八世紀には動揺しはじめていた。これは、農民が零細な経営を行うなかで非常に重い徭役労働をする義務があり、人々はこれに堪えられず逃亡したり、戸籍を偽って逃亡と記し、課役をのがれようとしたためである。

 また律令政府は班田不足の問題を積極的な土地開発に求め、墾田を奨励した。これが養老七年(723)の三世一身の法に、さらに天平十五年(743)の墾田永世私財法の発布へと発展し、律令政治の土地国有という大原則を否定する画期となったのである。奈良時代、甲賀郡には弘福寺(奈良県高市郡明日香村)領、西大寺(奈良県奈良市西大寺)領などの墾田が早くも成立したことが知られる。

 平安時代になると、班田は六年に一度から十二年に一度となり、その実施も困難になっていった。最終的に班田が実施されたのは、延喜二年(902)であり、それ以後完全に廃絶することになる。このように国家的土地所有が後退するなかで、貴族を中心に多くの墾田が経営されるようになる。ここで九世紀の近江国の事例として著名な文室宮田麻呂についてみてみよう。

 宮田麻呂は、承和七年(840)に筑前守に任じられた国司級の官人である。彼は承和十年(843)謀反人とされ、伊豆国に流された。このため没収された田地の一部が、貞観五年(863)貞観寺(京都市伏見区)に勅施入されたため、その内容をうかがうことができる(『日本三代実録』貞観五年八月十五日条)。これによれば、宮田麻呂の所有していた土地は、滋賀・栗太・野洲・甲賀・蒲生・神崎・高島・坂田郡といった近江国の各所に分散して存在し、その合計は、家10区、地(敷地・園地)15町、水田35町であった。ここで当時の墾田のありかたが、家一区に対し、園地一町程度と水田三町程度であったことがわかる。これらの墾田が宮田麻呂の直接経営であるはずがなく、在地の農民に請作させていたのであろう。

 宮田麻呂の場合、謀反の罪でたまたま記録に残ったが、貴族・豪族による土地所有は近江国においても、続々と展開したものと思われる。


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国司制の変容
 ところで、政府はこのような状況に手をこまねいているわけではなかった。延喜二年荘園整理令が発布され、荘家新立および王臣勢家による三川薮沢の囲い込みを禁止した。そして班田収授の実行と調・庸の納入期日厳守を命じたが、効果を認めることができなかった。

 そこで政府は、国司に対し基準国図(一国の公田の基本台帳)をもとに、一定の貢納物を朝廷に上納することを義務付け、そのかわり大幅に国司の支配権を拡大した。公田は、田堵とよばれる農民に請作させ、その田地の単位を「名」として把握するようになる。

 ところで、国内支配権を大幅に認められた国司は、段別賦課率法の変動権や検田権を掌握し、自己の武力を背景に非法を行うことが社会問題となっていく。永延二年(988)の「尾張国郡司百姓等解文」は有名であるが、近江国でも長元九年(1036)に、百姓ら500~600人が大内裏の陽明門に参集して、国司藤原実経の非法を愁訴している(「長元九年記」)。

 このように国司制度の変容は、郡にも及び、郡衙の権限が郡衙に吸収されていった。また、郡自体も分割されていく場合があった。甲賀郡の場合、康平元年(1058)十一月付の「秦安成解」(『平安遺文』902号)によって東西に分割されていたことが分かる。これは甲賀郡を甲賀谷と信楽谷に分割したものと思われる。この東西の郡には、それぞれ郡司が置かれた。時代は下がるが、保安四年(1123)、嶬峨荘と国衙領との堺相論で、国司庁宣が甲賀東郡司宛に出されており、東郡司がこの相論の調査に加わっていたことが知られる(『平安遺文』1991号)。