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古代の石部


203000000 第三章 平安時代の石部

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第一節 荘園の成立

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摂関家領檜物荘


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 檜物荘の貢納物 京都では北家藤原氏が、応天門の変(866)、安和の変(969)を経てつぎつぎと政敵をたおし、康保四年(967)に藤原実賴が冷泉天皇の関白となり、以後摂政関白が常置されるようになった。やがて、長徳二年(996)に藤原道長が左大臣となり、二十年間にわたって公卿の最高位を占め、子の賴道の代まで、摂関家の権力は絶大なものとなっていった。このため、寄進地系荘園の全国展開とともに、摂関家に多くの荘園が寄進された。

 摂関家領檜物荘が歴史上にあらわれるのは、藤原賴道の代、康平後年(1062)正月十三日の春日詣でに檜物荘が屯食三具を宛てられているのが初見である(『康平記』康平五年正月十三日条)。春日詣とは、藤原氏が氏人として氏神である奈良春日社に詣ずることであって、摂関家・氏長者が一度は必ず行うものであった。檜物荘の範囲は不明だが甲賀郡から蒲生郡にかけての広大な地域であったらしい。石部町もこのなかに含まれる。

 平安時代の檜物荘の貢納物をみると、ほとんど木製品である。例えば、頼道の曾孫、忠実の家政機構を示す「執政所抄」によれば、外居・長櫃・杓樋などを貢納している。このほか、丈六仏像造営に檜物荘が半丈六仏像造営に檜物荘が半丈六仏一躰を宛てられている(『兵範記』久安六年八月巻裏文書『平安遺文』1618号)。また、貢納の内容はわからないが、仁平元年(1151)三月八日付「檜物荘非時送文(『平安遺文』2723号)」が残されている。


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 檜物荘の寄人 この当時の檜物荘の荘園構造については、残念ながら関係史料がなく全くわからない。但し、承安元年(1171)十一月九日付小野為遠田地売券(『平安遺文』5053号)によれば、檜物荘に寄人がいたことが知られる。この史料についてくわしくみておくと、小野為遠は、下毛野為貞から蒲生郡桐原郷の土地一段を買得し、長年所有していた。ところで、為遠は比叡山延暦寺東塔の増善房から負物(借物)を借りたが返済できなくなった。そこで為遠は、先の土地を増善房に渡すため記したのがこの文書である。この文書の後半に、「但し、為遠檜物御庄の寄人なり。然ると雖も、彼の田地以後の日、檜物と号し、一切煩い云うべからず、兼て又、他の妨げ有るべからず。」とあり、為遠が檜物荘の寄人であったことが知られる。

 ところで、為遠はなぜわざわざこのような文章を記したのであろうか。これは、当時の寄人の身分的なありかたとそれに関連して生じた社会問題となっている。

 寄人とは、荘園のうちにあって貢納物を上納する人であるが、貢納物が農業生産物である場合や、木製品のような非農業生産物である場合など、その土地によって違う。一方、彼らは別の荘園の田堵として農業に従事したり、他の権門と身分を結ぶ場合があり、有力な上層農民である多い。これらの人々は一元的な身分支配を受けることなく多様な生産活動の場を獲得し、それぞれの領主に一定の貢納物を契約することによってその経営を行ってきた。

 しかし、寄人などが、貢納物の未進や犯罪などにより、所持していた私領が没収される場合がある。このとき、彼らは複数の領主との身分関係をもっているため、領主間の相論へと発展していることがあった。檜物荘寄人の小野為遠が、田地売却に際して、前述の文章を記したのは、この土地が摂関家や檜物荘荘官などに干渉されるおそれがあったからである。このようにこの時期の土地に対する支配は、常に動揺しており、田地の耕作も「片あらし農法」という隔年で耕作する農地が多く存在し、経営が不安定な面もあった。延暦寺の山僧による金融資本が及んでいたのも、この点とわかるであろう。

 檜物荘には、為遠のような寄人が多数存在したと思われる。檜物荘の貢納物からみて、彼らは木製品を加工する集団であったのかもしれない。


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 檜物荘の伝領経過 檜物荘は、藤原賴道の代からその存在が知られるが、その後頼道は平等院(京都府宇治市)、妻隆子(高倉院)、息師実、娘寛子(四条宮)に処分した。檜物荘は、寛子に処分されたらしい。その後、寛子の家領は、忠実を経て娘の泰子(高陽院)に伝領される。これ以後、檜物荘を含めたこれらの家領は、高陽院領と呼ばれることになる。

 高陽院泰子は、この時期の摂関家の政治的立場を象徴する人物であった。すでに後三条天皇を経て、白河上皇の院政が開始されており、摂関家は往年の権力を失っていた。保安元年(1120)、泰子の入内問題がこじれ、忠実は関白を罷免させられる。翌年、忠実はその処分が解かれ、関白は嫡男忠道が継ぎ、忠実は宇治に籠居したままであった。このことは、上皇が摂関家に対し絶対的に優位に立つことを現している。

 ところが、大治四年(1129)白河上皇が死去し、鳥羽上皇が院政を開始すると、状況が変わった。前関白忠実は、内覧に復活し、長承二年(1133)泰子は鳥羽上皇のもとに入内した。高陽院領は、泰子の後宮生活の費用をまかなうために処分されたものである。

 しかし、忠実の復活は、摂関家に新たな危機を作り出した。忠実の息、関白忠道との対立である。忠実は、もう一人の息賴長と結び、両者は抜差し難い関係となっていく。ここに保元の乱以降の内乱へと向かう道が作られていったのである。

 地方では、武士の力が台頭してきており、甲賀郡でも永久二年(1114)源義光が山村(山本か)・柏木両郷を「御勢いを募らんがため」に摂関家に寄進しており、清和源氏と甲賀郡とのかかわりが知られる(『平安遺文』補40・41号)。また、宇多天皇から出た近江源氏も各地で実力をたくわえつつあった。

 また、摂関家は、家領の人々を舎人として宿直警備や雑役をさせるため上京させた。平治元年(1159)閏五月から六月にかけての「高陽院方舎人当番支配(『兵範記』仁安二年十月・十一月裏文書、『平安遺文』2984号)」によれば、高陽院領の近江・摂津・和泉の三国から268人が上番し、近江国はそのなかでも206人が上番している。鎌倉時代、建長五年十月二十一日付の「近衛家所領目録(『鎌倉遺文』7631号)」によれば、近江国の高陽院領は檜物荘のほか、甲賀郡信楽荘、神崎郡柿御園、栗田郡田上輪工の四つからなっており、檜物荘からも多くの人々が上洛していたと思われる。彼らは、摂関家の政所、納殿、紅工所に配置された。「高陽院方舎人当番支配」の作られた平治元年といえば、十二月に平治の乱が起っており、彼らも戦乱に巻き込まれたであろう。

 ところで、高陽院領は、保元の乱で後白河天皇についた忠道が伝領し、その後摂関家は、忠道の長男基実(近衛家)と三男兼実が伝領し、以後代々近衛家の家領として相続される。