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古代の石部


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第三章 平安時代の石部

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第二節 伊勢路と石部駅館

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須波新道の開設


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 近江の新道 長らく東海道の道路の一部を形成していた「蔵歴道」は仁和二年(886)に至りその役割を終えた。石部平野の「岡田駅家(推定・甲西町三雲付近)」から水口を経て、鈴鹿峠を越え、「関駅家」に至る「阿須波新道」が開設されたからである。

 『日本三代実録』の仁和二年五月十五日の状によると、左衛門権左従五位上源朝臣昇と六位の官人一人を派遣して阿須波の道の利害を検分させている。ついで六月二十一日の状には、伊勢斎内親王(繁子)が「近江国新道(阿須波新道)」を通り伊勢神宮に行くことが伊勢国に告げられ、また、倉歴の旧道にあった頓宮(柘植付近)を停止することが伊賀国に伝えたことを記している・これにともなって、「甲賀駅家」も「阿須波新道」へ移動したと考えられる。


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 新道の整備 この新道は、ほぼ近世の東海道に一致し、また伊勢路と称されたように、東国に向かうよりもむしろ伊勢参宮のルートとして用いられていた。伊勢参宮の中で特に重要であったには、斎王群行と伊勢勅使の通路になっていたことである。

 斎王群行とは、天皇が即位した時に未婚の皇女の中から斎王が選ばれ、三年間都の初斎院・野宮での潔斎のうち、その九月に天皇に別れを告げ、伊勢神宮に行く行事である。

 これに対して伊勢勅使とは、天皇の特使として貴族が伊勢神宮へ御幣を奉納する行事をいう。このような行事はきわめて穢を嫌うことから、「阿須波新道」はかなり整備された道であったものと考えられよう。

 10世紀の初めのころの状態を示したと考えられる『延喜式』28、兵部省・諸国駅馬条の駅馬数にようると、図34のようになる。東山道と東海道を兼ねる瀬田駅家は、30疋である。これに対して新道の三駅家である岡田・甲賀・鈴鹿は伊勢路と東海道を兼ねるために、中路であるにもかかわらず、大路なみの20疋が備えられており、駅家も整備されていたものと考えられる。伊勢国の伊勢路の三駅は8疋で、伊勢神宮を過ぎ、志摩路に至ると4疋となっており、交通量に対応した駅馬数が決められていたようである。このことからも甲賀郡は、交通の大動脈が通る重要な地域であったことが理解される。