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古代の石部


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第三章 平安時代の石部

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第二節 伊勢路と石部駅館

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斎王群行と伊勢勅使の派遣


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 斎王郡行 斎王郡行と伊勢勅使は、きわめて重要な行事であったため、文献に散見する。表3は、現在までに確認できるものを一覧にしたものである。斎王が甲賀郡を初めて通過した記録は、「阿須波新道」の開設と同時に斎王繁子が群行した時のものである。さらに『西宮記』によると、醍醐天皇が即位した2年後の昌泰二年(899)九月に斎王柔子が群行している。この時の旅程は、八日の夜に京都を出発し、九日「勢田」、十日「甲賀」、十一日「垂水」、十二日「鈴鹿」、十三日には「壱志」に至っている。

 『延喜式』によれば、斎王群行は九月に行うのが恒例となっている。頓宮は、近江国府(瀬田)・甲賀・垂水・伊勢国鈴鹿・壱志の五ケ所であり、禊を六ケ所の界川、すなわち近江勢多川・甲賀川(野洲川)・伊勢鈴鹿川・下樋(雲出川)・小川(櫛田川)・多気川(宮川)で行なうこととなっている。この野洲川で行う禊は、野洲・栗太・甲賀三郡の境界に位置する伊勢落村付近であったと考えられる。伊勢落村は『近江與地志略』によると、かって「伊勢大路村」と称していたとする。現在も野洲川の堤防に沿った田の中に斎宮跡の伝承地がある。文献的にも、『帥記』の承保元年(1074)、『中右記』の永久二年(1114)、『愚昧記』の治承元年(1177)などに野洲川の禊の関係する記事がみられる。

 伊勢落村は、伊勢路のなごりの場所であり、三郡の境界に接し、禊の地としてふさわしい地点であったものと思われる。


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 伊勢勅使 つぎに、伊勢勅使では権大納言藤原行成の日記『権記』に出る伊勢勅使関係のものが最も古い。現存する『権記』の伝本は正暦二年(991)から寛弘八年(1011)の20年間に及んでいる。行成は藤原道長のごく近い縁続きであり、彼の良き相談相手となっていたようである。

 『権記』によると、寛弘二年(1005)十二月九日に臨時の伊勢勅使が決定され、翌十日に京都を出発し、「勢多驛(瀬田)」に着いた。十一日、一行は石部を通過して「甲可驛(甲賀)」に至った。十二日は「鈴鹿関戸驛」、十三日に「壱志驛」に、十四日に伊勢神宮に到着した。十五日伊勢に滞在し、奉幣を行った。一行の帰路は、十六日阿濃に泊り、十七日甲賀、十八日瀬田、十九日京都に戻っている。

 伊勢勅使の場合、斎王群行とは違って頓宮には泊らず、「假屋」・「借家」と呼ばれる施設に宿泊している。これは、前述した『延喜式』記載の駅家とは別の場所に設けられたと考えられる。日記にみられる駅は、『延喜式』記載の駅家ばかりを指しているのではなく、この「假屋」・「借家」をも含んだものと思われる。

 承保元年(1074)六月二十八日に伊勢勅使として京都を出発した源経信は、『帥記』に詳細に旅程を記している。

 六月二十八日「勢多駅家」に着いた一行は、二十九日、後刻に「夜須川(野洲川)」の渡し口至る。そこでは、降りしきる雨の中、危険な箇所を過ぎるようすと、洪水の状態が描写され、渡し口には舟がなく苦労して渡っていることが記されている。この場所こそ野洲川の狭隘部の野洲・栗太・甲賀の郡界線付近であったものと考えられよう。その日は、「栗太駅」に宿泊した。甲賀郡に入って「栗太駅」という名称には疑問が残るが、この宿所が郡司重綱大岡宅であるとし、近江国が「借家」を造らず懈怠していると述べている。このことから、『延喜式』の駅以外にも、伊勢勅使の宿泊施設があったものと考えられる。三十日には鈴鹿、一日は壱志、二日は伊勢神宮に到着した。帰路も同様のルートで四日に伊勢神宮を出発して、「壱志」・「鈴香(鹿)」、「郡司大岡宅」、「勢田」、八日に京都といった旅程であった。