石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


502000000

第二章 近代郵便と石部

502030000

第三節 東海道新式郵便の発足

502030100

新式郵便の準備

502030101
 官営新式郵便 明治新政府は政策スローガンでもある「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」を進めるためにも旧来の飛脚制度の経験を生かしつつ、単に彼らの近代化を待つのではなく、「上から」の郵便創業が必要であるとした。わが国の郵便創業を考える場合、新しい時代の要請という面とともに、その新しい時代をつくるために創業された側面もまた重要なのである。

 明治四年(1871)一月二十四日「飛脚便ヲ可成丈簡便自在ニ致シ候儀、公事ハ勿論、士民私用向ニ至ル迄世上ノ交ニ於テ切要ノ事ニ候」で始まる郵便創業の「太政官布告」と施行規則として「継立場駅々取扱規則」「各地時間賃銭表」「書状ヲ出ス人ノ心得」が公布された。そして三月一日は現在の四月二十日にあたる。

 「新式郵便」とは従来の飛脚屋と区別する意味で駅逓司自らがつけた名称であるが、同六年五月一日からの「近江郵便」と区別する意味から創業当初の郵便を「新式郵便」と呼ぶことにしたい。この時に設置された郵便機関は、駅逓司より官員が派遣された東京・大阪・京都の郵便役所と62ヶ所の郵便取扱所である。その62ヶ所は、いわゆる「東海道五十三宿」といわれる品川から大津までの53ヶ所と、大坂街道の伏見・淀・枚方・守口の四ヶ所と、佐野路の岩塚・万場・神守・佐野の四ヶ所に名古屋を加えてたものである。

502030102
 駅逓司の巡回指導

 石部駅では、郵便創業の準備指導のため駅逓司官員による巡回指導が二度行われている。山内駅逓大祐・真中駅逓権小祐・中西駅逓小祐・五嶋駅逓小祐らが明治三年十月初旬次々に滋賀県下の各駅を訪れているが『石部町史』によると「郵便を開始する準備をして……十月三日より同十六日迄郵便事務についての会議が大津駅および西京の地において開催された。出席者は石部駅元締役 小島雄作」とある。

 なお、「十月一日、水口御立、石部御休、草津御泊、御宿大黒屋弥助、二日御逗留、三日昼後より御立、大津御泊」と「草津駅逓郵便諸事留帳」(『黒羽兵治郎氏所蔵文書』)びある山内駅逓大祐は隣駅草津駅の出身者で郵便創業時に前島密の片腕となって活躍し、同五年には駅逓権助に任ぜられている。

 石部の場合、二度目の駅逓司官員による指導ならびに点検の巡回は、創業を10余日後にひかえた明示四年二月重九日に行われている。その二日前の二月十七日の昼ごろ、次のような通達が順達されてきた(「郵便運輸御発行一件録」『薮内吉彦氏所蔵文書』)。

 今般 拙者共京坂江之御用相兼、不日発足駅ゝゝ巡回、別紙御布告ノ諸件、御談判ニ及ブベク候ニ付、手操ノタメ、書類御回シ申候間、御布告并時間表トモ一駅壱冊壱枚宛引去、郵便時間記ハ御一読ノ上、迅速御順達コレアリ度、此段申進候也

  辛未正月廿九日 駅逓小令史 戒能好幸

          駅逓小祐 真中忠直

     東海道

       品川より大津迄

      伏見より守口迄

        右駅ゝゝ出張

          駅逓掛御中

 この通達は、迅速でなく石部駅へはに20日近くかかって到着している。文中に一枚ずつ引きとることを指示されているのは、一月二十四日公布の利用者への周知文である。「書状ヲ出ス人ノ心得」と「各地時間賃銭表」であったと思われる。先触によって駅逓司の二人が十八日は水口駅に泊まり、十九日には石部駅へ巡回することは知らされていたので、石部駅から十八日に小島雄作、青木左助ぼ二人が水口駅まで出張している。駅逓司の二人が十九日、石部へ持参したものは次の金品であった(「郵便運輸御発行一件録」)。

 一、布袋(郵便物を入れる行嚢)四枚

 一、飛行人足の三月分賃銭見込額

   金20両3歩ト永13文7分8厘

 一、郵便切手 20シート 1.200枚

502030103
 ポスト・切手・局舎 ポストと郵便切手は、いわば新式郵便の象徴である。ポストすなわち書状集メ箱に関して石部ではちょっとしたエピソードがある。

 明治三年十二月に駅逓司より書状集メ箱及び切手売捌所掲札は雛形の通り至急に各駅で製作しておくようにとの通達が膳所藩へ出された。ところがどういうわけか、膳所藩では、石部駅と草津駅への連絡を忘れていた。実は二月十七日に先述の駅逓司よりの通達に際し、おそらく小島雄作らが、急拠会合してまとめたと考えられる巡回駅逓司官員への11項の質問の中に「書状集メ箱、登り方・下り方と二箇仕立置ベシとの御達であるが、その大きさは何ほどであるか。且、その入用金は駅逓司より下されるのであるか、駅ゝゝ製作するのであるか」との一項がある。この質問書を持って水口駅へ出張した小島・青木の二人は、初めて、膳所藩よりの通達漏を知り、雛形を写して石部駅へ知らせ、石部駅では十八日大工安治郎が徹夜で書状集メ箱を製作し、翌十九日の検査にかろうじて合格した。

 この時交付された郵便切手の内訳(「郵便運輸御発行一件録」)は、つぎの通りである。

 五百文切手五枚 銭100貫文

 弐百文切手10枚 銭80貫文

 百文切手10枚 銭40貫文

 四拾八文切手 五枚 銭10貫文

 枚数はシート数であり、当時の一シートは切手40枚なので合計すれば1,200枚、銭230貫文となる。なお、明治三年十二月十九日には、我国最初の郵便印である「大型検査済印」と「賃銭切手済印」が西京駅逓司出張所より石部駅へ交付されている(「明治三年暦十一月ヨリ 駅逓御用都明記」)。創業当初人々にとって、郵便物に切手を貼ってポストに投函すること、及び切手に再使用禁止のために消印を使用することは、従来の飛脚になかったことだけに戸惑ったと思われる。たとえば駅逓司への質問の一項には「各書状に添付の郵便切手は再度使用防止のため検査済の印を押して亜毎月東京駅逓司へ返上いたすべきか。」(「郵便運輸御発行一件録」)というのがある。それに対するか回答は「受取人が反古に致すべし、差替えしには及ばばい事」とある。

 郵便誤用の庁舎もその際「郵便会社 別段取締に及ばず、在来の伝馬所を仕切り、当分手初め申すべき様」と指示され、大工安治郎に伝馬所の東側部分を模様替えさせ使用している。この時の書状集メ箱などの製作、郵便所模様替えの材料と手間賃、および郵便差立請取印判代と朱肉代合計は金36両2分3朱と銭9貫500文である。なお二月一日付で草津駅及び水口駅までの村々の庄屋・年寄りに対して、飛行人足が途中で発病または足痛を起こした場合は、代わりの人足を依頼している(「郵便運輸御発行一件録」)。

このようにして石部駅では、郵便創業への準備を整えて三月一日を迎えることになる。