石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


502000000

第二章 近代郵便と石部

502040000

第四節 郵便創業当初の状況

502040100

創業当初のさまざまな問題

502040101
 郵便御用の人たち 創業当初、郵便誤用は従来の伝馬所の一隅で行われ、その責任者は各藩より東海道各駅に出張していたが、石部駅の場合は、東海道石部駅出張膳所藩駅逓掛として、権少属杉浦重文・同田中重孝・少属饗庭光久らの名がみえる。おそらく彼らが交代で伝馬に詰め、時にはその一隅にあった郵便取扱所へ時々顔を出していたのが実態であったと思われる。そして書状継ぎ立て、配達の実務は伝馬所出仕者が行ったとみられる。

 同四年「三月中勘定書書上帳」には、石部駅郵便所信取扱方として、青木左助・花井久六・小島金左衛門・福島定次郎・前田清兵衛の名がみえるが、彼らは同年二月に膳所藩駅逓御役所に宛てた「乍恐奉願上口上書」に差出人として書かれた石部宿御伝馬所肝煎役及び元〆役の五人とまったく同一人物である。

 同五年一月には、本章第一節でみたように石部駅でも伝馬所が廃されて陸運会社が営業を始める。そして、それまで伝馬所で取扱ってきた郵便事業、すなわち郵便切手の売捌・書状取集メ箱(ポスト)の取集め、郵便物の継ぎ立て・市街及び近傍五里以内の配達などすべてがこの陸運会社に委託される。

 この陸運会社の営業当初、陸運業務とともに郵便業務に従事した者として先述の五人や、山本順治・おくの宗二郎・井上治八・三大寺專治・三大寺小右衛門・山本十兵衛・奥村清左衛門らの名がみえる。彼らは本陣を勤める三大寺小右衛門をはじめ、旧宿駅時代に宿駅事務に携わっていた人たちであった。彼らは先述したように、さながら御用荷物継立所のように、しかしまた同時に従来取扱ってきた書状継ぎ立ての経験を生かして郵便誤用に従事していたのである。

 後には小島雄作が一人で請負うのであるから書状継ぎ立て数はそれほど多くなく、また巡回駅逓司への質問にも「飛行会社」とあるように、当初官営・私営・陸運・郵便の区別の認識がどの程度あったかは疑問である。

502040102
 重立駅による取締
 明治五年一月の宿駅制度廃止により、東海道各駅に出張していた各府県の官員、すなわち各駅郵便取扱所の責任者が引き揚げた。これにより、官営事業が民営の陸運会社に委託されるという、ちぐはぐな状態が生じた。そこで駅逓寮が考えたのが、東海道各駅の中から18局を重立駅として選び、そこへ従来出張していた府県官員に、駅逓寮十五等出仕心得、つまり駅逓寮の役人として、その駅及び付近数局の指導監督に当たらせる方式であった。

 その重立駅の取締役が心得るべきこととして、「東海道駅詰官員心得方」十七条が達せられたが、その第一条には「郵便諸規則を能く了解の上、関係駅々の取扱方の是非を検査し、誤解の廉等を見認候はば、懇切に相論し申すべき事」とある。石部駅を監督指導する重立局は草津駅であり、草津駅の「草津諸事留帳」によると、草津駅詰奥村孫十郎が、草津・石部・守山・武佐・愛知川・八幡町の各駅の郵便御用、ならびに陸運会社取締として滋賀県庁より任命されている。

 この草津駅十五等出仕奥村孫十郎は元草津宿役人、当時の伝馬所元取締である。

502040103
 集配と継ぎ立て 創業当初の配達は、東海道各駅の市街地と五里以内の近在に限られ、郵便取扱人が請負っていた。市街地内は隣駅より到着次第直ちに配達したが、市外へは幸便に託する方法と、特別に配達する取り扱いがあった。当初は普通郵便でも、引受時・配達時に差出人・受取人の住所・氏名を記録し、東京郵便役所へ報告していた。その写しとみられる「明治四年辛未四月、三月中受取状数書上帳」(『薮内吉彦氏所蔵文書』)にはたとえば「道法」「里以内針村、 北島半七、淀 奥村条蔵」というように102通の受取人及び差出人の住所(地名のみ)氏名が記されている(表56)。ただし差立の場合は、73通とその数のみしかわからない。

 駅間の継ぎ立ては、飛行飛脚夫と呼ばれた脚夫により行われた。この脚夫は各駅八人と定められていたが、石部駅ではとりあえず六人ではじめたようである。「三月朔日より郵便御発行ニ付、毎宿ニ飛行人足八人相抱、順ニ割当申スベキ処、先ツ試ノため在来ノ刻取四人使役、二人都合六員ニて手初メ候処」とあり継飛脚要員がそのまま郵便脚夫として採用されたことがわかる。また、定められた逓送時間は厳格だったことが次の小島雄作の前島駅逓頭への請願(「明治八年郵便御用留」『薮内吉彦氏所蔵文書』)からもわかる。

 当石部ヨリ

 一、草津ヘ 里程二里三十二丁四十八間一尺

       二時間五里之割

       逓送時間一時二十五分

 一、水口ヘ 里程三里六丁十八間二尺

       二時間五里之割

       逓送時間一時二十六分

 右之通、脚夫ヲシテ屹度速度ヲ履行可為仕、萬一事故ナラシテ渋滞有之時ハ、私ニ於テ其譴責ヲ可相請、此段御受仕候也

このように分単位まで定められており、「事故ナクシテ渋滞」した場合、しばしば譴責を受けている。この読書の明治八年(1875)十月の段階では、石部・水口間の横田川は仮橋で雨期の出水時には舟で渡ったようである。同四・五年には川支が多く、その折には、可太越関駅までの約十二里(48km)の間道継ぎ立てを指示されて困窮している。

 郵便脚夫は三貫目(11.25kg)の郵便行嚢を天秤棒にくくりつけて「一時五里」つまり時速10kmの平地で定められていた速度で街道をひたすら走った。「滝谷と申峠これあり、四境樹木生茂り深雪の節ハ道路降埋で明かならず歩行相成難し」とは小島の建言書の一節であるが、川支の際や、炎天下、または厳冬の降雪や積雪時の郵便脚夫の苦労は並大抵ではなかった。天候だけでなく、夜間、山中での逓送時には郵便物はよく強盗に狙われ、命を落とす脚夫もおり、石部駅では同七年一月二十二日、駅逓寮より六十五号、六十六号の六連発ピストル二挺が交付されているが、時には脚夫の継ぎ立ては命がけだったのである。なお郵便脚夫には、一人一理銭600文基準で賃銭が支払われ、三貫目以上と夜間(二人)の場合は割増賃銭が支払われた。

502040104
 節約の方法 
わが国の近代郵便の父といわれる前島密は郵便創業当初の苦心の一端を「郵便事業は全然余の立案に出づるものなれば、一点他の否議を受けずして敏速にこれを通過せしめんとするに際して、一時多額の起業費を要するが為に、他の反対を受けん事を恐れ、苦心惨憺を極めたり」(『自叙伝』)と述べている。また「政府に向って迚も多額の支出を望む事も出来ず、また民間に向っては収入の多い事も望めません。そこで収支対償の主義をとって、節約と権宜の方法とを以て、事業の拡張を計画しました」(『郵便創業談』)。

 そこで前島は、政府が条飛脚問屋に支払う月額1,500両、年額18,000両を「漸時の郵便基金」とし、さらにそれから得る収入を「新線路拡張の基金」にあて、政府の通信費の支出をなくそうとするばかりか、郵便料金の国庫への収入を目論むという構想で取り組むことになる。国庫よりの支出を極力切り詰めたこと、つまり「節約の方法」は随所にあらわれる。たとえば、郵便取扱所への手当についてみると、郵便取扱所の責任者は、各府蕃県の管理などで駅逓司から月給は支給されていない。石部駅でもそれを疑問視したのか、先述の巡回駅逓司への質問の一項に「飛行会社の筆墨・蝋燭などの事務用品費及び取扱人のげっきゅう、その他の諸入費は、すべて駅逓司より月々支給相成候哉」というのがあるが、それに対する回答は、「地方官員へ申付候事、月給は支給されず蕃県にて取扱う事、但し、諸入費は、三・四・五の三ヶ月を経ざれば、東京郵便役所へ申出るべし、支給申すべく候」とある。

 実際各駅へ支給されたのは、わずか一銭から五銭で、苦労の多い夜の継ぎ立ても一夜一銭である。(表57)。

 石部駅は一日の手当てが二銭で、明治六年四月一日の料金均一制施工時の書状の郵便料金と同額である。しかし、こ   

 の「節約の方法」をもってしても、初年度は収入17,976円に対し、支出が35,626円で不足額は17,650円であった。なお同四年の滋賀県内各駅の収支状況をまとめたのが(表58)である。

 郵便事業が国庫に寄付するのは逓信者発足後の同十九年(1886)以降であり、その以前は、当初の前島の予想に反して、収入が支出を上回るのは、明治十年度より十四年のわずか五年間のみであった。