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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第二章 近代郵便と石部

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第五節 近代郵便の整備

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郵便の利用拡大

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 料金均一制・官営独占制
 駅逓司自らが「新式郵便」と名付けたのは、わが国通信史上、画期的なものであったが、料金均一制と官営独占という近代郵便としての必須条件は、まだ達せられていなかった。明治四年(1871)一月二十四日太政官布告(郵便創業布告)は、「飛脚便ヲ可成丈簡便自在ニ致シ候儀、公事ハ勿論士民私用向ニ至ル迄」の利用をうたっているが、創業当時の配達地別制はもちろん、同年十二月五日改正の場合でも「貧窮ノ者共、遠国近在互ニ其情ヲ通ジ」あえる郵便料金ではなかった(表59)。

 前島はイギリス滞在中に、ローランド・ビル考案による料金遠近均一制、及び郵便事業が政府の專掌事業であることが近代郵便の必須条件であることを学んでおり、駅逓頭就任十二日後の明治四年八月二十九日、郵便官営独占制と料金均一制を内容とする「郵便新律之伺」を大蔵省に提出している。理論的にみて、料金均一制を採用すれば、近距離の料金は原価に比して相対的に高くなる。飛脚という競争相手がいる限りこれは可能で、独占があってはじめて料金均一制が可能となる。官営郵便と飛脚との熾烈な競争は、飛脚のドル箱であった東京・横浜間の場合が有名であるが滋賀県でもみられた。

 同五年(1872)二月十五日、滋賀県令松田道之が大蔵省に提出した郵便料金値下げの建言書には大意次のように書かれている(『駅逓明鑑』)。

 八幡町・大溝町・堅田村などの者は、京都への書状が多く、これまでの飛脚を利用すれば毎日京都へは六時間で達し、賃銭も目方にかかわらず一通およそ32文、急便でも50文から70文である。しかも飛脚屋は自宅まで取り集めにきてくれるので、居ながらにして荷物・書状とも差し出すことが出来、しかも半年後払いである。それに比べて郵便は25里までが100文もするので、京都・大坂近傍へは利用する者は少ない。……せめて15里以内50文に改定していただければ郵便取扱所は繁昌し、天下の人民は便利となろう。

 もっともな異見であるが、この時点で駅逓寮は「無意味な料金引下げ競争となりかねないから従来どおりと仕、官営独占の日を待つように」と回答している。当時、営業成績を度外視した飛脚の攻撃に押され、東京・横浜間の郵便料金は、開設時の明治四年七月十五日は248文だったのを翌月には48文と大幅に値下げせざるを得なかった。やがて、前島駅逓頭による東京定飛脚問屋代表佐々木荘助への説得が効を奏し、同五年六月一日に、まず東京・横浜間の信書私送が禁止された。そして、翌明治六年(1873)四月より、郵便料金は全国均一制が実施され(表59参照)、翌五年一日より郵便事業は官営独占、政治の專掌事業となった。同年三月十日の太政官布告「郵便規則」の前文には次のようにある。

 今明治六年四月一日ヨリ郵便賃銭ノ称呼ヲ廃し、郵便税ヲ興シ量目等一ノ信書ハ里程ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ、等一ノ郵便税ヲ収メ候条、詳細ノ儀ハ改定郵便規則書ノ通可相心得事

 同年五月一日ヨリ信書ノ逓送ハ駅逓頭ノ特任ニ帰セシメ、他ニ何人ヲ問ハス一切信書ノ逓送ヲ禁止ス、若其禁ヲ犯シ候者ハ郵便犯罪規則ニ照フシ令処分候条此旨可相心得事

 これによって、ようやくわが国の郵便は近江郵便としての条件を整えることになったのである。そして同年四月一日に、従来の郵便役所(東京・大阪・京都・横浜・神戸・長崎・函館・新潟)を一等郵便役所とし、郵便取扱所のうち、270ヶ所を選んで郵便役所に改め、これを二等70局、三等44局、四等156局に区分した。その際、石部は四等郵便役所となった。

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 郵便取扱所・郵便取扱役
 明治五年一月の東海道の宿駅廃止による各府県官吏の引き揚げに際し、郵便取扱所は、すべて駅逓寮官吏が所轄するようにスベキだが、それには莫大な費用がかかるので、とりあえず重立駅を設けたことは記述のとおりである。

 東海道ばかりでなく、全国の宿駅廃止が、日程に上るようになった同四年末、駅逓寮は、すべての郵便取扱人に駅逓寮の準官吏としての社会的地位を名目的に与える方策を考えた。同年十二月十七日、駅逓寮が大蔵省へ提出した「郵便取扱所ノ者ヘ当寮附属名目被下度儀ニ付伺」には「多分ノ御手当下サレ候ハバ多分ノ箇所故、実ニ多分ノ御費相成ルベク、依テ勘弁仕候所、御手当ハ別ニ下サレズ、是迄ノ通定置、郵便取扱所御取扱所御用相勤候内ハ、当寮等外三・四等附属格ノ名目ノミ下サレ置候ハバ、自分ノ誉ノタメ精勤致シ候様、相成ベクト存候」(『駅逓明鑑』)とある。

 その結果、明治五年三月十八日には「先ツ当分之内ハ其土人中より官員ヲ撰ビ、其者之居宅ヲ以テ仮役所ト致シ、專ラ其事務ニ相当リ候様為致度」(『駅逓明鑑』)との省議が決定した。

 同五年末の郵便機関の数は、郵便役所八ヶ所、郵便取扱所1,156ヶ所で、郵便線路は北海道の一部を除いてほぼ全国的に拡張された。そうなると郵便取扱所も主街道とは限らないわけで、宿駅以外の地では多くの場合、元庄屋・名主などといわゆる地方の名望家、村落指導者層の中からが郵便取扱人に選ばれるようになった。

 わが国の郵便事業が、短期間に全国に線路を拡張し得たのは、その局舎の所有者を取扱人に任命したことによる。つまり、各地方の有識資産家が封建時代に蓄積していた資本を通信の資本として動員し得たからである。たしかに、自分の家に居ながら、役人の列に加えられることは当時の人々には魅力あるものであった。

 前島は当時を回想して次のように語っている(『郵便創業談』)。

 役人といわれて役所の事務を執ることは、地方の人々などは、別して名誉としていたからです。これもやはり実費をかけずに虚栄を利用して、斯業を発展させる私のひとつの方略でした。

 この郵便取扱の手当は、きわめて安い。七等取扱役の場合一口米として30戦である。明治四年九月の「駅逓寮職員俸給表」にみる前島駅逓頭の月俸200円は、山内大属の70円は別格としても、創業時、滋賀県下各駅へ巡回にきた五島・真中権中属が30円、中西少属が25円、戒能十四等出仕でさえ15円であり、50銭とは当時の大工の日当よりも安い額である。額の低さもさることながら、郵便取扱役の手当に限り、旧幕時代の武士に用いた「口米」と称する言葉を用いていることにも注目したい。前島は、郵便事業を拡張するにあたり、国家の財政支出を最低限に切り詰めた苦労を次のように語っている(『定刻郵便創業事務余談』)。

 取締役の選任にあたり、余にとりて大に便宜なりしものあり。即ち当時封建時代の旧情態はなお地方において依然存在せること是なり。……平民にして藩侯より扶持米を給せらるるときは、たとい一人扶持にても大なる栄誉となす。……斯る遺風の損することこの業のために幸なれと余は最初よりこの風習をりようせんと欲し、因て稟議して郵便取扱役には口米を給するとの一特例を開きたり。

 これまた、前島のいう「節約と権宜の方法を以て、事業の拡張を計画しました」と語る方策なのである。同七年(1874)の『駅逓寮年報』をみると、3,236人の郵便取扱役に対して支出した手当は年額わずか134,591円であるが、取扱役への手当は支出額の2.6%に過ぎない。手当ばかりでなく、筆紙・墨・蝋燭などの事務用品費もまた少なく、石部郵便役所が同六年五月に支給された筆紙墨料はわずか10銭であった。

 同四年五月十日の新貨条例で100文が1銭となるので、創業当時の郵便飛脚の一人一里の賃銭が600文、つまり六銭だったことを考えても、この10銭がいかに安い額だったかがわかる。 

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 小島雄作郵便取締役 駅逓寮等外付属格式を申しつけるから一ヶ所一人の郵便取扱人を入札で選ぶように、との滋賀県からの通達により、同五年七月より小島雄作が陸運会社とともに郵便取扱人を請負っている。

 それを報告した東京郵便役所への「乍恐御届書」(『薮内吉彦氏所蔵文書』)によると、同五年一月より三月までは、山本順治・奥野宗治郎・花井久六の三人が、四月より六月までは三大寺專治がそれぞれ郵便取扱人を請負っていたようである。

 小島雄作は同三年十月大津で開かれた郵便創業準備会議に石部駅を代表して出席し、さらに同四年二月十八日には水口駅へも出張しているように、郵便御用に熱心であり、石部駅の郵便取扱人としては適任だったと思われる。そして、同六年三月十八日、郵便取扱所をそれまでの元伝馬所より自宅である元本陣に移している。その際の滋賀県庁からの通達及び小島の請書は次のようである(『薮内吉彦氏所蔵文書』)。

 郵便御用之義、以来其方へ委任候条、更ニ自宅ヘ引移シ御用弁仕スベシ、之ニヨリ郵便事務ニ限リ、以後一名ニテ諸願・伺・願共仕スベキ旨ニ付、御請書差出シ申候

    御請書

 郵便御用之義、以後私ヘ御委任ニ相成、就而ハ来ル三月十五日ヨリ自宅ニテ取扱フベキ旨仰渡サレ承知奉候、諸事尽力御用弁仕候、依而御受書差上ゲ奉リ候、以上

  明治六年三月

        甲賀郡第一区石部村

          三百十九番屋敷

             小 島 雄 作

 同十三年(1880)には四等に昇格しているが、郵便局の等格は同十九年まで四等である。

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 小島雄作の活躍 小島雄作は、嘉永元年(1848)十二月十日生まれであるから郵便御用を請負った明治五年七月は二十三歳の青年であった。彼が同十三年三十一歳の時に友人の山本順治と一緒に写した当時の石部としてはハイカラな洋服姿の写真がある。それをみると、本陣十二代目としての誇りと、郵便御用を通じて新しい国家の建設に参加し、地域社会の文明開化のリーダーとして活躍する喜び、さらには陸運業界の青年実業家としての意気を感じさせる。

 小島は駅逓頭(局長)前島蜜や、滋賀県令松田道之に多くの建言書を提出しているが、それらを通じて活躍の一端をみていくことにしたい。彼は石部の発展を意図したのであろうか、石部を起点とする郵便線路の開設にきわめて熱心であった。すなわち同六年八月には信楽庄屋野村まで、同年十二月には日野まで、同七年九月には加太越関駅まで、同八年六月には辻村経由守山駅までのそれぞれの郵便新線路を、また栗太郡の手原村・東坂村・金勝中村、甲賀郡三雲村・上朝宮村への郵便取扱所の設置を建言している。

 彼は近代郵便の果たす役割、すなわち情報の早期伝達が地方産業の発達を促進し、その地方産業の活性化が逆に郵便の発達をもたらすことを承知していた。それは次の石部駅と信楽庄長野村間の継立回数を増加するようにとの建言書からも読みとることが出来る。

 往復信書隔日ニテハ殆ト不都合、ナカンズク茶相場ナド折々高下コレアリ、郵便遅配ニ候テハ営業上多分ノ損亡コレアル旨、屢申出候間、何卒御賢議之上、来ル十一月一日ヨリ毎日脚夫差立候様願上奉リ度(前島駅逓局長宛の上申書、明治十年十月八日)

 長野局ヘ毎日脚夫差立ラレ候様ニ命ゼラレ候ハバ茶商ノ者一層弁利を得、弥々以郵便盛大ニ相成申スベクト存ジ奉候(前島駅逓局長宛の上申書、明治十一年三月二十五日)

 小島は、明治六年三月十八日より郵便業務を本陣である自宅に移し「第四等郵便仮役所」と「陸運元会社取扱所」の二枚の掛札を掲げている。そして彼は、「郵便」と「陸運」の二つの家業を相互にうまく利用していた面がみられる。たとえば同年八月二十二日の辻村の得意先への廻章に

 今般金子入信書及諸荷物諸渡郵便書状逓送方之義、駅逓寮ヨリ我等方ヨリ拝命いたし候ニついては、各様御出店先ヨリ御差送リノ金子及諸荷物御届、且御手許ヨリ御差立ノ品受取トして日々郵便新書配達ノ際、御尋申スベク候間、我等方ヘ御渡下サレ度御頼談申上候

 とあるのは、郵便物配達時に陸運元会社で取扱うべき荷物の有無を尋ね、また、

 追而毎月三・八ノ日一ヶ月ニ六度づつ八幡ヘ飛脚相立、信楽へも月ニ四度ヅツ相立、東京へは一ヶ月ニ、三十度、西京、大阪へも一ヶ月ニ、三十度ヅツ相立候間、着前御用コレアリ候ハバ御申遣レ下サルベク候

とあるのは官営郵便のことである。小島にとって家業の陸運業に「郵便御用」の看板がプラスになったと思われる。

 同八年(1875)六月、解散した石部陸運会社も吸収合併し、同十四年(1881)ごろには、京阪神よりの物資は大津より山田浜(草津市)に運ばれ、やはり小島の経営する山田分社により陸揚げされ、草津・石部・水口・土山・関方面、さらに津・松坂・宇治山田と伊勢方面までの継ぎ立てを小島が経営する石部の内国通運が請負うまでに成長している。その小島にとって月額50銭の手当てなどむしろ迷惑なぐらいで、どう六年三月には一ヶ年金五円を、「学校御入費万分ノ一に御差加下サレ候」と、さらに同七年九月には「御入費万歩(分)ノ一に御差加下サレ候」と手当辞退を建言している。その彼も同十年(1877)西南戦争の特別軍事郵便をもいえる飛信逓送(速達便)には困ったようである。

 同年四月から十一ヶ月間に87通を継ぎ立てており、うち49通が夜継ぎであるが、当時、郵便物の継ぎ立ては内国通運の馬車便で石部郵便役所に継ぎ立ての郵便脚夫はおらず「何卒特別ノ御詮議ヲ以定式御手当ノ外、一局ニ書記役一名ノ給料月々御下ケ渡シ下サレ度」と建言している。石部郵便局に書記役が採用されるのは同十三年からであり、それまでは「家族共ニテ万事御用弁奉居候」とあるように小島は家族を動員していたのである。  

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 郵便馬車の登場 新式郵便は当初、東京・京都間三十六時(現在の72時間)、東京・大阪間三十九時(78時間)でこの間の距離は576kmであるから平均時速7.4kmとなる。

 同五年八月からは、それまでの東京ならびに大阪午後七時出発の便に加えて、午後一時出発の三十六時便がはじまる。東京・大阪間が三日間の便である。午後七時の上り便は石部駅から草津への出発は午後十時ごろであり、午後一時の下り便は石部駅から水口への出発が午前零時ごろで共に夜継ぎである。飛脚より少しでも早く逓送するため、駅逓寮は同五年四月より東海道の郵便逓送に人力車を採用する。脚夫が引く人力車は時間的には飛脚と違いがないが、脚夫一人が運べる重量の四倍のものが運べた。しかし長距離の郵便物逓送には不向きであったのか、逓送途中の破損があいついで、わずか三ヶ月で姿を消すことになった。

 次に登場するのが郵便馬車による逓送である。同六年二月より大坂・京都間の郵便馬車が営業を始めており、同八年末からは内国通運会社による神奈川・熱田間の長距離郵便馬車が開設されている。それが石部駅を通って京都まで延長されるのが同九年八月十六日からである。

 熱田駅より桑名駅まで 七里十五丁 人夫逓送

 桑名駅より関駅まで 十里十一丁 馬車逓送

 関駅より土山駅まで 四里九丁 人夫逓送

 土山駅より西京まで 十六里 馬車逓送

 馬車逓送は人夫逓送以上に天候に左右されたが、平均して東京・大阪間数時間のスピードアップとなった。

 鉄道による郵便物逓送は、新橋・横浜間は同五年、大坂・神戸間は同七年、大坂・京都間は同十年と、いずれも鉄道開設とともに実施されている。東海道線は、明治二十二年(1889)七月でその直後に郵便物の逓送も行われている。

 このようにわが国の場合、西欧諸国を比べて鉄道郵便の先行形態としての郵便馬車時代はさして長くない。ポスホルンを吹き鳴らして疾走する郵便馬車は欧米の場合、郵便のシンボルとされているが、わが国でも100年前の明治十年代に、ピストルを腰にした馭者の乗る郵便馬車が、石部を東に西に往来していたのである。

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 施策の拡充 明治六年四月一日の料金均一制の採用、五月一日の政府專掌により、近代郵便としての基礎を整備し終えた郵便は、高まりつつあるじゅように応えて事業を拡充していった。そのことは郵便ハガキの発行・金子入書状・地方郵便別配達・無料郵便・飛信逓送・外国郵便などの開設、万国郵便連合への加盟などに示されている。石部郵便局の明治二十年(1887)までの郵便物数取扱状況(表61)、さらに明治九年滋賀県下郵便物数とその種別(表62)、滋賀県下の明治六年~九年の郵便物取扱数(表63)、滋賀県下明治七年現在郵便局設置状況(表64)は当地域においても郵便事業が着実に発展していることを物語っている。

 ただ、設置後間もなくは医局があいついでいるのには驚かされるが、その理由のひとつは「取扱役ニ給与ノ金ハ僅二ニソノ名ヲ附スノミ、全ク労賃ノ実ニ対シテ報フヘキノ額ニアラズ」(『第七次駅逓年報』)と駅逓寮も自ら認めるように、その経済的負担に堪えかね、特にインフレ、デフレなどの経済変動の激しい際に多くの取扱役が辞職したことによる。

 さらに駅逓局では、明治八年一月より郵便為替、同年五月からは郵便貯金も創業するが石部郵便局の取扱開始は貯金が明治十八年六月、為替が同二十三年(1890)十月からである。