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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第三章 近代社会の発展と石部

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第一節 町村制の施行

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明治地方自治制の確率

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 町村制の概要 町村制は市制とともに明治二十一年(1888)四月公布、翌年四月から施行された。ついで、府県制と群生も一部に根強くあった尚早論や無用論を押し切って、同二十三年(1890)五月難産の未交付された。それらはいずれも立法府(帝国議会)の審議が行われないままに急遽制定されたが、ここにようやく明治地方制度は確立した。滋賀県においては、市制・町村制は明治二十二年四月から施行されたが、同二十三年五月公布の新しい郡制と府県制を施行したのは遅く、前者は同三十一年(1898)四月で全国46府県中37番目、後者は同年八月で36番目であった(亀掛川浩『明治地方制度成立史』)。

 さて、町村制は八章139条(市制は七章133条)からなる膨大な法律であったが、その概要は次のようである。

 町村はまず郡に、次に府県(市は直接府県)に包括される基礎的地方団体と位置づけられた。町村は「法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担」する自治体として法人格が認められ、郡・府県の上部団体の監督の下に条例・規則の制定権が初めて与えられた。

 町村内に居住する者は住民と公民に分け、公民だけが町村の政治に参加する権利と義務を有した。公民は、①満二十五歳以上の帝国臣民で公権を有し、一戸を構える独立の男子で、②二年以上町村の住民となり、その町村の負担を分任し、③その町村内で地租を納めるか、もしくはその他の直接国税年額二円以上を納める者、以上三つの要件を満たしたものとされた。また、彼ら公民のほかに、れいがいとして他の町村に移住している特定の多額納税者(不在大地主)はたとえ公民資格を欠いても選挙権が与えられた。

 議決機関である町村会は、人口の多寡によって8~30人(市会は30~60人)の議員で構成され、その選挙方法は二級選挙制(市は三級選挙制)のいわゆる等級選挙制が採用された。これは選挙権有資格者全員の納める直接町村税の総額を二等分(三等分)して最多額納税者の属する群を一級選挙人、その下位に属する群を二級選挙人(さらには三級選挙人)とし、各級ごとに議員定数の二分の一(三分の一)ずつを選挙するものである。したがって、ごく小数の選挙人が、極端な場合一人が議員定数の半数を選ぶこともありえたのである。議員は名誉職で任期六年、三年ごとに半数を改選した。議長は町村長が兼任し(市会では互選)、町村会はその町村を代表して条例・規則の制定をはじめ町村に関する一切の事項を議決する権限が認められた。しかし、国家から過重な委任事務を課せられながらそれを審議・変更する権限は与えられず、しかもそれが予算の面で町村の活動を大きく制約したので、実質的な権限はさほど拡大しなかったという(吉岡健次『日本地方財政史』)。

 執行機関の町村長(市は合議制の市参事会)は原則として名誉職で任期四年、町村会が町村公民中から選出し知事の認可を受けて決定された(市長は有給で任期六年、市会が推薦した三人の候補者から上奏裁可を請うて選任された)。

 最後に、町村の財政については、町村費の徴収・支出に国家による法的保護と規制が確立し、また予算が議会の議決を要することになったのでこの点でも近代化が進められた。ただし、その収入は財産収入・営造物使用料・手数料などに限られ、これらで不足する場合にのみ租税(付加税)・夫役および現品を賦課徴収しうるとした。実際には付加税が町村財政を支えたが、地租の場合は七分の一以内、その他の直接国税の場合は本税の100分の50以内という制限が付されていたので、総じてその財源はきわめて乏しく、この面からも町村の活動は制約を受けたのである。

 以上のように、明治二十二年に施行された町村制は、地主を中心的に担い手とした、限定され拘束の強い地方「自治」であったことは疑いない。しかし、他方、明治五年(1872)に自然村を統合して初めて行政区が設置されて以後、三新法、連合戸長制へと試行錯誤を繰り返しながら、その間争われてきた自治と間治をめぐる対立にようやくその妥協点を見出した意義も見逃してはならないだろう。

 なお、戦前記に限ってみれば、町村制は姿勢とともにこの後五回にわたって大きな改正をみた。明治四十四年(1911)、大正十年(1921)、同十五年(1926)昭和四年(1929)、同十八年(1943)である。これらのうち、昭和十八年の改正だけは戦時期でもあったので、「時計の針を明治初葉まで引き戻したようなもので」(亀掛川浩『地方制度小史』)、復古的な内容であった。しかし、そのほかの四回の改正については町村会の権限強化がはかられ、また選挙資格から納税要件が撤廃されるなど、総じて町村自治を拡充し民主化が進められた。

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 町村合併と新石部村
 町村制施行の理由のひとつは国家の基礎を強固にすることであったので、政府は「自ヲ独立シテ基本分ヲ尽ス」「有力ノ町村ヲ造成」することを急務とした。もっとも、自然村を統合するこの政策は、他方では共同体的秩序を支える「隣保団結ノ旧慣」を損ない、国家の基盤をむしろ不安定にする側面をももっていた。したがって、町村合併は、政府にとって「日夜殫思シ、終りニ意ヲ決シテ百艱ヲ排シ」(山形有朋)での断行であったという。これによって、町村制が施行された明治に二十二年(1947)四月には,全国で七万余の町村が一挙に16,000たらずに減少した。つまり、五万数千の町村がなくなる大規模な町村合併であった。

 そこで、政府は新町村を作る基準について詳細な規則を設けることを避け、地方の状況にゆだねる方針をとったが(とらざるをえなまったが)、同二十一年(1947)六月におおまかな基準を一度示していた(内務大臣訓令第352号)。それによると、相当の資力なく独立自治の目的を達することのできない町村は、およそ300戸を合併を行うことを命じ、また連合戸戸長所轄区域が地形・民情に支障ないときはそのまま合併してよしとした。

 滋賀県では、多くの府県と同様に内務大臣訓令の一年前の明治二十年(1945)七月ごろから、県令の命を受けて郡長が極秘のうちに町村合併の予備調査を進めていた(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。このとき作成された「町村区画取調」通りには進捗しなけかったが、「不得止事故アルノ外、従前ノ戸長役場部内ヲ用意ニ分合ス」、また「一般人民ニ諮詢セサル」という強硬な方針(県訓令第88号、明治二十一年八月)で群や県が指導した結果、同二十二年二月下旬にはほぼ完了した(『滋賀県沿革誌』)。最終的に確定した同年四月において、滋賀県は1,675町村から195町村に、甲賀郡では124町村が25町村に減少した。

 石部村およびその周辺での合併過程をみてみよう。甲賀郡でも新しくつくられた25ヶ村の多くは、合併課程で地形・人情、隣保団結の習慣、水利あるいは生活慣習等々をめぐって紛糾を重ねた。『滋賀県市町村沿革史』を通観すると、曲折なく合併が行われたのは、いずれも信楽郷にあたる四ヶ村(雲井村・長野村・小原村・朝宮村)にすぎず、また連合戸長役場所轄区域をそのまま継承して一村となったのは、石部村はじめ10ヶ村であった(県下では195町村中104町村)。

 石部村においても、石部・東寺・西寺の三村による合併案のほかに、水利の関係から東隣の柑子袋村(明治二十二年の合併で三雲村に編入、甲西町)をも加える考えがこのときからあったようである。甲賀郡町が「村吏並各村重立チタル者」に対して行った諮問に、石部村連合戸長三大寺専治は、明治二十一年八月次のように答申していた(同、第六巻)。

  甲賀郡石部村外二ヶ村答申書

 一、町村制御施行ニ付新村ノ造成ハ現在戸長役場所轄区域三ヶ村を以テ自治ノ団体ト為シ差閊ナカルベシ、最モ地形ハ一村ノ形況自ラ備リ人情能ク適合スレバ前顕ノ如ク連合区域ヲ其儘新村ヲ組織セラレ可然相考候。

   但隣村柑子袋村ヲ編入セラレテモ亦差閊ナカルベシ。

 一、村名ハ石部村ニテ宣シカルベシ。

 一、村役場位置ハ現今戸長役場(石部村ニアリ)ヲ其儘適用シテ差閊ナシ。

 一、共有山ハ現今部内ノ外他ニ関係ナシ。

 一、学校ハ現今部内一学区タリ、因テ新村ヲ一区域トシ宣シカルベシ。

 一、用水路ハ現今他部内ニテハ柑子袋村ニ関係アル而巳ナリ。

 右之通リ答申仕候也。

 また、ちょうど同じころ、三雲村ほか五ヶ村(柑子袋・平松・針・夏見・吉永・以上甲西町)せは、ひとつの合併案として東寺・西寺・柑子袋・平松・針・で一村、三雲・夏見・吉永で一村をつくって、石部村は単独で町村制へ移行することが考えられていたという(同上、第二巻、第六巻)。その後の経緯について詳しいことはわからないが、昭和十六年(1941)から推し進められた所謂「強制合併」のときも、石部村は一部と合併することが県の計画に上っていた。さらに甲西町との合併については、戦後も継続した懸案であった(第五章第一節)。

 明治二十二年四月、新しく誕生した石部村は、現住人口3,678人、戸数711戸で、甲賀郡25村中それぞれ七位と六位に位置していた。

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 村長と役場・村会
 町村制へ移行したときの初代石部村長は、大字石部出身で醸造業を営む山本順治であった。彼は新しく衣替えした村会で選出されて明治二十二年七月就任し、丸五年努めた。彼の活動や経歴について詳しくは記さないが、県下における初代町村長の多くのケースと次の二点で異なっていた。一つは連合戸長を経歴していないこと、二つは就任後すぐに辞退していないことである。初代助役は、やはり村会の選出によって青木弥三郎が就任している。戦後までの村(町)町名を一括して表67に掲げておこう。村長が神山禎三郎となった明治二十九年(1896)ごろから吏員に「村長達」が示されることになり、これによって石部村役場の組織や規律が整備されていった様子をうかがい知ることができる。たとえば、その第一号(明治二十九年七月)は吏員の執務時間を夏期の二ヶが月間は午前中までの四時間、その他は休憩時間を含めて八時間勤務と定め、続いて第二号では37条からなる事務細則を設けている。また、第16号(同三十三年十二月)では村長・助役・収入役を除く吏員の事務分担を議事・兵事・戸籍―戸籍―書記一人・雇一人、賦税・衛生・土木―書記一人―雇一人、勧業(学校建築事務と農会事務補助を兼ねる)―書記一人と定めた。

 なお、明治四十四年十月に勧業を森林・商工と農業の二つの部署に分けそれぞれに書記一人を置いて、役場の職務組織は確立した。ちなみに、大正十二年(1923)における『石部町勢一斑』に記載されている吏員数は、町長一人で年額俸給が360円、助役一人で同420円、書記五人で年額俸給一人平均396円、収入役は空白となっているが、その設置は法律で義務づけられているので一人はおそらくいたであろう。また、報酬などについては、町村長と助役は原則的に大正期においても名誉職であったので、その額はこのようにたいへん低かった。

 明治三十五年末から同四十四年末にかけての首長であった立川伊与助・武田憲治郎の時期における「村(町)町達」には、吏員に服務規律の遵守を喚起する達しが多いことが目立つ。登庁の際や執務時間には羽織・袴、もしくは洋服の着用を説くものに始まり、町民へのO横柄な態度を注意し、また選挙では吏員の「謹厳公平」たるべきことが再三再四にわたって達せられた。東寺の役場は、町会や群・県会および衆議院の選挙が近づくと選挙人名簿を作成し、それを選挙前の一定期間役場内で有権者に縦覧することが義務づけられていた。その際、吏員に「選挙ノ自由公正」を乱し、「世ノ避難物議ヲ招クカ如キ行為」があったようである。

 役場は、明治十八年から石部3438番地に設置されていた連合戸長役場をそのまま引き続き使用した。その後明治二十年代末から昭和七年(1932)に新築移転するまで四回移転し、同四十二年に現在の石部町公民館に移転、さらにどう五十三年に現在の庁舎へ新築移転して今日に至っている。さて、町村制施行にともなって石部村会(定員十二人)も新たに発足し、石部から八人、東寺・西寺からそれぞれ二人が選ばれている。このときの有権者(公民)数は、一級選挙人21人、二級選挙人322人、計343人であった。現住人口のほぼ10人に1人、また2戸に1人の割合であったが、その後大正十五年(1926)に男子普通選挙が施工されるまでの間も有権者数・割合ともに漸増していった(表68)。

 さきにふれたように、町村会は条例や規則の制定、予算の議決など以前に比べて広範な権限が与えられた。石部村会の議事内容を確かめられる史料はそれほど多くはないが、幸い町村制が施工されて間もない明治二十四年(1891)一月下旬に開かれた石部隣村会の議案が残っているので、以下それを掲げておこう(『石部町教育委員会所蔵文書』)。

 一、村会議員定期改選交替手続件(定期改選はその任期一ヶ月前において選挙会を行うことなど三点の確認・取決め)

 一、改正小学校令ニ関スル諮問件(高等尋常小学校の教科と一校へ併設置の件)

 一、地方税経済堤防工費江大字石部寄付金百円上納方法変更件(堤防工費への寄附金100円が工費充当に不要となったので、翌年度の雑収入へ繰入れる件)

 一、甲賀郡石部村消防組合設置規定増補件(その第六条部分改正)

 一、甲賀郡石部村大字石部第一区々長辞職申立ニ付、正否見認件

 一、甲賀郡石部村勧業委員選挙之件

 一、石部村外弐拾参ヶ村委員井上敬祐退職后任選挙之件

 一、等役場書記一名退職后員選任中止シ常雇吏員ヲ以事務為扱度件 

一、伊勢皇太宮外五神社代参料及組頭報酬諮問案

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 石部村の町制施行 石部村は、明治三十六年(1903)五月十一日付の内務省指令(甲第79条)で許可されて、同年六月一日から町制が施行されることになった。町制へ移行するに付いては、立川伊与助村長を議長とした村会で当然話し合われたと思われるが、その記事録は残っていない。内務省にあてて出された稟請書は次のようであった(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。

  石部村ハ東海道中ノ一駅ニシテ古来石部町ト呼称シ……其大字石部ハ民家整然相連ネ、住民ノ多クハ商工ヲ以テ営業スシ、市街ノ体裁亦頗るル見rヘキノアリ、維新後郵便電信局・警察分署・公立学校・関西鉄道停車場、其他銀行会社支店等ノ設置アリテ、附近村落ノ要衡ノ地チシテ、将来益繁盛ノ域ニ達スルノ趨勢ナリルニ依リ、町ニ改メントス。

町制施行は甲賀郡では水口町についで二番目、県下では十二番目とかなり早い方であった。石部町となった明治三十六年(1903)六月一日には、全長民あげてこれを記念するため休業とし、国旗を掲揚下(写166)。

また、町制施行後二週間を経た同年六月十五日の行政文書には、もろもろの税金の税率が上げられるのではないかという、増税の噂が町中に流れたことが記されている。事実、営業税などがわずかながら増税されたようであるが、多くの町民には増税の影響がないので、その旨、各組内へ通知するよう指示が出された(『西寺地区共有文書』)。

町制と村制は法律上は同じ取り扱いであったが、しかし、町制への移行は石部におけるいわゆる町おこし運動(地方改良運動)を推し進める契機となったことは疑いないであろう。明治四十年代に入ると、武田憲治郎町長の下で200頁をこえる『石部町是』が編まれ、将来に向けての産業発展の方策が具体的に定められたのも、そのひとつの流れであったと理解できよう。