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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第三章 近代社会の発展と石部

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第二節 産業の発展

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産業と鉄道

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 内国勧業博覧会 明治新政府は近代化政策の一つとして殖産興業政策を進めた。政府主催の内国勧業博覧会をはじめとする各種博覧会の開催はその政策の一環であり、全国各地より出品された代表的物産品やその生産技術をひとつの会場において公開し、それによって殖産興業を促そうとするものであった。

 明治五年(1872)三月、誌が県庁は県達の中で、京都博覧会社が主催する京都博覧会へ出品したい県内物産品として、甲賀郡内では水口村の籐細工物、土山村の製茶、信楽谷の茶壺・陶器類とともに石部村の金銀銅鉱・石灰などをとりあげている(『滋賀県市町村沿革史』第六巻)。

 同年五月には石部村より「石灰生業并器械書上」が提出されている(『石部町教育委員会所蔵文書』)。この史料は冒頭に「墺国博覧会ニ付、今般當村出産石灰創業己来製方等ノ御取調ニ付…(後略)」とあることなどから、明治政府が同六年五月オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会へ出品する国産物品の選考のために、各県へ調査を命じたコトニ関わるものであろう。各村むらより提出されたこれらの史料はまもなく滋賀県勧業課の手によって『滋賀県管下近江国六郡物産図説』として郡ごとにまとめられた。

 このウィーン万国博覧会に政府が参加出品したことを契機として、内務卿大久保利通は日本国内において内国勧業博覧会の開催の必要性を、その意義を太政大臣三条實美らに再三具申している。

 大久保の意見が入れられて第一回内国勧業博覧会が東京上野公園を会場として開催されたのは明治十年八月二十一日のことである。十一月三十日までの102日間を会期とし、出品者数16,172人、出品点数84,353点、会期中の入場者総数454,186と大盛況であった。出品物は審査を行い、褒章受賞者は5,096人にのぼった。

 この第一回内国勧業博覧会に石部村は「第一区鉱業冶金 第一類鉱物」として、硫化磁鉄と硯材を出品している。このときに甲賀郡内より出品している。このときに甲賀郡内より出品したものをまとめたのが表69である。

 滋賀県下での当時の工業生産は開坑紀年が新しく、開掘権者が滋賀県庁となっているものが多い。これはひとつには採算性の問題があったものと思われる。生産高の多い愛知郡政所村の硫化鉛銀鉱の場合は政商五代友厚が開掘権者であり、埋蔵量も豊富な鉱山であったと思われる。石部村は江戸時代より銅の採掘を中心として試掘と休山をくり返していたことは前述した(四、近世、第四章第五節参照)。

 明治六年、石部村字アマツボ(雨坪・甘坪)山において借区面積1,250坪で緑礬(硫酸を含んだ鉱物=硫化磁鉄)を、同八年同山において借地面積1,000坪で同緑礬の採掘がはじられた。第一回内国勧業博覧会開催当時、同山の借区は吉川宗八が採掘権を所有し、かなりの生産をあげていることになる。しかし、同十三年には両借区の採掘権とも京都在住の士族二人に移っている。さらに「明治十九・二十・二十一年ニハ甲賀郡ニ現行ノ銀銅鉱アリト雖モ、本年四月休坑ニ属セリ」(明治二十三年『滋賀県統計書』)とあることから、採掘そのものが打ち切られていることがわかる。

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 擬石盤
 鉱物類の出品のほかに石部村山本治兵衛が「第二区製品 第十六類教育器具」として擬石盤を出品している。明治九・十両年の『滋賀県統計書』には文具類として陶製石盤の生産が行われていた記載があることから、学童の文字の筆記練習用に用いられた小型の黒板のようなもので、石部村の石灰石を原料に製造されたものと思われる。この擬石盤は第一回内国勧業博覧会において、廉価でかつ学校用に適しているという理由で花紋賞牌を受賞し、受賞品であるとうたって同十二年一月に商品化し、販売を開始したようである(写167)。

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 石灰生産 江戸時代中期以降、上灰山・下灰山の二ヶ所で石灰の製造が行われていたが、経営維持に困難をきわめた情態であったことは前述した(四、近世、第四章第五節参照)。

 明治初年ごろ石部灰会所をせっちして上下両灰山は協定を結んで経営を維持し、それぞれの年生産高は33,000俵に達していた(『石部町のあゆみ』)。

 明治十三年六月、上灰山の経営にたたっていた井上敬祐が、石部村地下方より下灰山の石灰焼出権を買入れ、両灰山の経営権を掌握、井上灰会所と改称し、経営を再開した(「萬用日記帳」明治十三年十二月一日条『小島忠行家文書』)。灰山は主として肥料用に、そのほか陶磁器原料・建築用にとその需要の高まりとともに、同二十二年の関西鉄道の開通以後、滋賀県内外への移出が増加した。

 大正二年九月には、取締役社長井上敬之助を筆頭株主(1,000株所有)として十四人の株主の出資により資本金10万円(2,000株)で石部石灰株式会社が設立された(『石部町役場史料』滋賀県立図書館所蔵)によると、年間営業日数250日、1日就業時間10時間、作業従事者は男28人、女1人、合計29人であった。

 さらに同六年の『滋賀県統計書』の会社名称表の甲賀郡内の払込資本金5万円以上のリストの中に甲賀銀行・淡海銀行などの銀行ととに石部石灰株式会社が記載されており、郡内製造業のトップクラスに位置していたことがわかる。しかし、大正九年三月下旬には、

 「俄然財界ニ動揺ヲ生ジ、諸物価ノ暴落日を逐フテ激甚ヲ極メ、爰ニ小恐慌時代ヲ現出スルニ至レリ、就中各種肥料ノ激落ハ自然當社生産品ノ売行ヲ不況ナラシメ遂ニ例年ニ比シ多少産額ノ減少ヲ見ルノ止ムナキニ立至ラシメタリ」(前掲第七期営業報告)

と製品の売れ行きの減少を述べている。その後も規模をやや小さくしながら製造を継続したが、昭和三十二年(1957)年ごろ廃止された。

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 石部駅の開業
 明治五年九月十二日(1872年十月十四日)新橋・横浜間に鉄道が開通し、旅客輸送が開始されて以来、鉄道使節を求める機運は「宏壮気焔、頗ル鋭ナル」ものがあった。しかし、やがて松方財政の下にあって「趦趄逡巡」(行きなやみ後退する)の時期を経て、明治十年代末に至り「気運頓ニ旺盛、殆ント急進ノ方ヲ取」る状況となり、「輿論モ亦鉄道ノ拡張ニ傾キ、施設会社各所ニ勃興シ、急掻競進、数年ヲ出スシテ五百余哩ヲ開業スル」(『鉄道局年報』明治二十二年度)までになった。事実明治二十二年には官設鉄道880km、私設鉄道840kmに達した。

 このような気運の中で、京都・滋賀・三重の各府県の有志による関西鉄道会社の設立が企てられた。同二十年四月関西鉄道会社により、草津―四日市間の鉄道が計画され、その間約106kmに、草津・水口・深川の順に九ヶ所の停車場が予定されているとの噂があった(『中外電報』明治二十年五月六日付)。鉄道工事はまず草津…三雲間(15.9km)で進められた。それにともない石部村の鉄道施設予定地について、地主45人の所有地142筆、四町二反六歩の買収が行われた。敷設に際して既設の道路が踏切で鉄道を横断する部分について、トンネル化を要望する動きがあった。甲賀郡正福寺村・岩根村・下田村に通じる道路と蒲生郡八日市村に通じる二つの道路の踏切について、石部村地主総代らは人馬の通行が多いこと、農耕に必要な牛馬や肥物運搬に不便を来たすことを理由に、トンネルとするよう知事を通じて鉄道会社に要請した。しかし鉄道会社は「幾分カノ不便利トハ相成リ候ト存候ヘ共、踏切道設置ニ而十分」(『石部町教育委員会所蔵分署』)として、予定通り踏切とすることになった。

 草津・三雲間のほぼ中間点の駅として石部駅が設けられることになり、明治二十二年十二月十五日開通式を迎えた。当日午前七時五分草津発一番列車には栗太郡の小学校生徒200余人を乗せ、三雲駅に向けて出発し、同十時二十分草津発二番列車は招待客200余人を乗せて出発、十時四十分石部駅停車場に到着し、石部駅で近くの招待客20余人と小学校生徒40余人を乗せ、同四十五分石部駅を出発し、十一時三雲駅に到着した。三雲駅頭では祝賀会が開かれ、続いて祝宴がが催された(『中外電報』明治二十二年十二月十七日付)。翌年二月十九日には三雲―上柘植間が開通するに至った。

 開通当初、草津―石部間十九分、石部―三雲間十六分を要し、草津―三雲間を一日六往復運行していた。運賃は三段階が設定されており、石部―草津間の上等十八銭、中等十二銭、下等六銭、さらに石部―三雲間の上等十五銭、中等十銭、下等五銭であった。また、翌明治二十三年の段階で乗客が多く、通常列車だけではまかなえない場合は、臨時列車を上り・下りとも各三本用意していた。同二十五年の日雇い労働者の一日平均賃金が十八銭であったから、庶民にとって当時の鉄道は気軽に利用できる新しい交通機関とはいえななかった。表70に石部駅の旅客・貨物の利用状況を示したが、明治二十年代の一日平均旅客数は40人前後にとどまり、三十年代にようやく70人台に達している。明治二十四年度の乗客中上等は4人、中等99人の利用にすぎない。貨物については、路線が延長されたにもかかわらず、保有貨車数は同二十八年まで75~78輌であり、扱い貨物量に著しい動きはみられない。しかし同三十一年度には3,000トンを超える扱い量となった。明治三十七~四十年度の貨物の内容をみると、米の出荷量が全体の40%を占めている。その他の主な出荷貨物として、石灰・肥料・雑貨、荷受貨物としては石炭・肥料・食塩などがあり、鉄道が地元産業の発展に欠くことのできない輸送手段として、その重要性を増しつつあった。まお関西鉄道会社は同三十九年三月に公布された鉄道国有法にもとづいて同四十二年買収され、国鉄草津線となった。