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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第五章 現代社会の展開と石部

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第二節 石部の発展とその特性

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農業地域としての石部

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 農業協同組合の設立 戦前に地主を中心に組織された石部町農業会は終戦後、GHQによって解散させられた。昭和二十二年の農業協同組合法に基づいて、農地耕作者を構成員とする石部町農業協同組合が新たに結成されたのである。

 当時の町長をはじめ、各部落単位で選出された二十二人が設立発起人となり、設立打合会は同二十二年十二月五日から翌年二月二十二日までに計八回、農業会事務所などで開かれ、農業組合発足に向けての具体的な作業課題がさまざまな角度から検討されたのである。そして、同二十三年一月二十一日大亀町会議所において農業従事者六十五人が参加して設立準備会を開き、定款作成委員(設立発起人が兼任)を選任した。その上で各小字の実行組合を単位にして農業協同組合設立の説明会が開かれ、ついで二月二十五日、総同意者(組合員資格者)342人のうち288人の出席者を得て石部小学校講堂で設立総会(第一回通常総会)が開催されたのである。農業協同組合の出資金(第一回払込金)は一口50円で、組合員は一口以上出資した。設立当初の出資金は総口数353口、出資総額18,000円にたっし、四月三十日には滋賀県知事より設立の認可を得た。農業会保有の資産が農業協同組合へ移譲され、同年十月には農業会の資金分割が認められ、農業協同組合は農業会の財産を受け継ぐ形態で運営が始められた。

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 農業協同組合の事業
 組合員数は設立当初の昭和二十三年には365人であったが、その後増加して同三十五年に400人前後で横バイ状態となっている。

 次に、農業協同組合の主たる事業には営農事業、共済事業、信用事業、購買・販売事業の四つである。営農事業として、町内の組合員農家から生産米を集荷し、抽出検査の後、農産物倉庫に保管し、他市町村へ出荷する業務を行っている。米以外に、東寺・西寺地区では麦や大豆栽培の集団化・共同化を推進し、転作田の利用方法やミニ野菜農採団地の育成を行っているが、それらの指導・援助をしている。また、以前には水稲の種子消毒やヘリコプターによる水稲空中防除(昭和四十四年~四十六年の八月)を実施していた。共済事業では、農協共済保険の取り扱い業務を行っている。これは高齢者社会に対応するための生涯保険設計と組合員の生命財産を守るためのものである。本組合の共済保有金高は着実に向上しており、同六十二年には128億円となっている。信用事業においては組合員からの預金業務および組合員に対する貸付業務を行っている。設立時から預金高25億円、貸付金高2.1億円である。最後に、購買・販売事業は生産資材の販売や生活資材の購買といった業務である。農業経営の安定化・合理化をはかるために農機具や肥料・農薬などの農業資材を共同購入し、組合員に販売している。また、食料品や日常生活品なども生活資材についても関連工場から良質で安全なものを仕入れ、同二十七年に組織された農協婦人部を通じて安価で組合員に供給している。

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 石部頭首工 野洲川は農業用水の基幹河川としての役割を持っているが、渇水期になると用水調達は深刻な問題となった。このために石部町においても古くから隣接地域との間で水をめぐる争論がたえなかった。昭和十四年三月甲賀郡をはじめ、栗太郡、野洲郡の野洲川沿岸の十九町村が組合を組織し、野洲川にダムを建設する運動を進めた。同年七月より貯水池の築造が始まったものの、太平洋戦争の激化にともない同十九年に中断してしまった。

 戦後、水論の抜本的解決策として滋賀県が野洲川ダムの建設をはかるべく、中断していた工事を同二十二年一月に再開することになった。さらに、同年七月以降国家事業として進められることになった。これにより土山町大河原に建設された有効貯水量728万トンのダムと、その関連施設は総工費6.4億円を投じて同二十六年に竣工した。

 貯水池の建設に関連して、頭首工が水口町を石部町に建設された。二つの頭首工は上流の野洲川ダムで調節された水を再度堰止めて、中・下流域の水田を灌漑するためのものである。石部頭首工は同二十七年七月に起工され、同二十九年に完成した。石部頭首工は提町217m、提高4.8m、可動水門59m用水幹線は延長76,303mに及んだ。石部町のほか栗東町・守山市・野洲町・中主町などの下流が受益地域をなっており、水田約2,200haを灌漑している。こうした近代的な灌漑施設が建設されたことによって、野洲川流域の水稲栽培農家は安定的な農業用水を得られるようになった。

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 水田の転作
 国内の余剰米が増加する中で、米の生産調整は当初在庫事情と自給バランスを検討して行われ、地域事情を考慮した短期的な自給調整策として始まった。石部町においても昭和四十六年度から米の生産調整・稲作転換対策事業が実施され、政府米生産調整奨励補助金交付要綱にしたがって進められた。農家がそれまで耕作していた水田を休耕(転作)した場合、農家に奨励金が交付されることになった。これ以後も生産調整は同様に行われ、同五十一年には水田総合利用対策事業となった。

 さらに同五十三年度より長期的な政策となり、本格的な水田の転作が展開された。転作の目標面積を達成するための取り組みとして、部落座談会や栽培講習会、各種の研究会が開催された。水田利用再編対策事業をして、第一期(昭和五十三年~五十五年度)、第二期(同五十六年~五十八年度)、第三期(同五十九年~六十一年度)と計九年間にわたって水田の転作が行われた。さらに、同六十二年度より水田農業確立対策事業として進められている。

 過去十年間における転作作物の中心は麦(26.2ha)、大豆(36.2ha)、野菜(50.3ha)である。転作開始当初より野菜と大豆が高かったが、第三期以降は野菜が主たる転作作物になっている。なお、同五十八年度から水田預託が始まり、他用途利用米もどう五十九年度から栽培することができるようになった。

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 農業基盤整備事業 東寺・西寺地区においては農業基盤整備事業(団体営圃場整備事業)が同五十五年度より着手された。この総事業費は34,500万円(このうち75%が国・県の補助金)で、五年計画で進められた。圃場面積は50.3haで、一圃場あたり平均面積は30a(約三反)で造成された。これによって、大型農業機械の導入が可能となり、作業効果が改善され省力化がはかられた。また、同時に阿星地区農村基盤総合事業が進められ、22,200万円を投じて基幹農道や農業用水路、集会所その他防火施設が整備された。ただ、前述したように水田の転作対策が求められ、作付の内容は同五十八年度に策定された石部町農業生産総合振興計画を踏まえて進められた。石部町での水稲の基幹品種は日本晴れであるが、圃場整備された水稲にはコシヒカリを導入し、品種別の団地作付を奨励している。また、小麦(品種:農林61号)・大豆(品種:タマホマレ)・野菜(露地栽培)などを組み合わせた集団的な高度転作・輪作が行われている。

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 数字に見る農業
 戦後における石部町の農業について各種の統計データをもとに把握しておこう。

 昭和二十五年以降の農家戸数の動きをみると、同年に378戸であったものがどう三十五年に397戸といったんぞうかしたものの、その後は減少し続けている。特に同四十五年の380戸から同五十五年の322戸と、この10年間で58戸減っている。

 農家人口も同様の傾向を示している。同三十五年に2,283人に達していた人口は、同四十五年1,947人、どう五十五年1,635人で、それぞれ300人以上の減少となり、同六十年には1,518人にとどまっている。

 農用地の変化をみると、戦前の同十年には312haあったが、同三十年には291haとなった。さらに、同五十年には209haにまで落ち込んだが、同五十五年215ha、同六十年222haと微増した。同六十三年現在、214haと再び減少し、町面積の16%を占めている程度である

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 農業の変容
 形態別・規模別農家数から農業経営の側面についてみていこう。図59は経営形態別農業家数の推移である。専業農家が明治四十一年(1908)には312戸、大正十五年(1926)に286戸と70%以上を占めており、戦前において農業が石部町の主たる生業であったことを示している。戦前に比べると、戦後は専業としての農業の色彩は薄れていく。昭和二十五年には、専業農家143戸、第一種兼業農家81戸、第二種兼業農家154戸となっており、専業農家と第二種兼業農家がそれぞれ40%ずつになってた。その後、専業農家は急激に減少し、同三十五年に88戸となり、さらに同四十五年には皆無となった。一方、第二種兼業農家は同三十五年に60戸、同四十五年に105戸、それぞれ増加した。同五十五年にいたっては、全農家数の98.8%が第二種兼業農家となり、農業の兼業化がピークに達した時期に当たる。こうしてみると、同三十五年から四十五年にかけて、徹底した兼業化が進んだことがわかる。ただ、近年において同四十五年に皆無であった専業農家が同五十五年1戸、同六十年4戸と、わずかながら増えていることも見逃せないところである。

 戦後、町内への工場進出と交通体系の整備によって他業種への就業機会が増加あいたために、農業は兼業化が著しく進行した。それとともに、農地以外の土地利用がはかられて、経営面積が小規模化したのである。こうして、石部町の農業はサラリーマンによる日曜農業としての傾向が強くなってきている。ただ、こうした趨勢の中で、同五十五年以降に専業農家が再生され、同三十五年より1.5ha以上の経営面積をもつ農家が維持されているのは注目すべきところである。これらの農業は水稲栽培をはじめ多角的な営農を行っているものと思われるが、兼業化・小規模化された地域農業の再編成が叫ばれている中で、新たな可能性を求めて展開している農家の存在がみられるのである。

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 農業の機械化
 戦後の農業が効率的に進められた要因のひとつとして、農業の動力化・機械化があげられる。昭和二十五年ごろは、農耕の主力は人力と畜力であった。農耕に際して、総農家378戸のうち、牛を使用した農家は370戸で、動力耕転機を使用した農家は2戸にすぎず、ほとんどが畜力を利用していたのである。

 同三十五年においても農作業の主力は畜力であったが、徐々に動力も取り入れられるようになった。同年には畜力のみ使用農家はゼロとなり、畜力と動力の併用農家が主流となった。また、別の統計によると、動力耕転機を使用した農家は個人所有の8戸、他の農家の耕転機を借用した農家25戸の計33戸で、それによる作業面積は水田11.9ha(前水田面積の約5.5%)、畑0.6ha(全畑地面積の約5%)にすぎなかった。本格的な機械化が始まったのは、表80で農用機械の所有台数を示したように同四十年以降である。同三十五年には発動機あるいは電動機・堂力脱穀機・動力籾摺機はかなり普及していた。同四十年には耕転機が165台となり、さらに、同四十五年には307台と飛躍的に増大したのである。こうして、耕起作業を中心とした農作業は牛などの畜量から耕転機やバインダーなどの動力機械へと転換された。同五十年になると、従来は人力による手作業であった田植作業や稲刈作業が動力田植機や自脱型コンバイン(もしくは、バインダー)によって機械化された。同五十五年には機械化がほぼ完了し、作業効率は著しく向上したが、同六十年現在では、飽和状態となり減少の兆候がみられる。

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 植栽場の設置
 昭和三十三年一月に日本道路公団は西寺の六反地区に名神高速道路試験所石部分室として植栽場を置いた。これは名神高速道路の開設にともなって車線の中央分離帯やサービスエリア・インターチェンジに植える潅木を栽培するための施設である。同三十三年度より五年間に総経費6,520万円をかけて16.9haを開墾した。同年四月から苗木を植え付け、同三十七年四月には樹木の出荷を始めた。その後、何度か栽培場は改称されたが、現在も高速道路の景観保全、沿道住民の生活環境保全に役立つ樹木を生産し、それに必要な調査・試験・研究を行っている。現在、全敷地18.07haのうち、12.57haが苗圃用地となっている。苗圃用地は四つの地区に区分され、ウリハダカエデなどの高木、カイズカイブキの中木、サツキなどの低木、キヅタなどの蔓物、それにポット育成の苗木が育成されている。中央分離帯の樹木としてよく利用されるカイズカイブキの場合、苗木の移植、施肥、病虫害の防除、支柱手直し、整枝剪定など数多くの作業を経て、およそ五年間で成木となり出荷される。出荷先は全国各地に及び、高速道路のほか、一般道路にも利用されている。 

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 林業の概要
 石部町域の山林の面積は同三十年に886ha(総面積の66%)であった。同四十五年には691haとなり、同五十六年ごろまでは町面積の半分が山林であった。同六十年には統計上、281ha(総面積の21%)となっている。

 統計データには制約があるが、町内の林業の様子をみておこう。同三十二年から五十七年までの樹種別林野面積を示したのが表81である。町内では針葉樹が90%を示しているものの、年々減少している。また大規模な造林は同二十八年と同三十七年に行われ、それぞれの年の造林面積は282.2ha、297.6haに達している。各年の造林面積は同三十一年まで30ha以上になっていたが、同三十二年からは10ha以下にとどまった。林産物には素材や薪があり、素材は同二十九年に4,307石となっている。薪は同三十三年には約32,000束に達したが、電気・ガスの普及にともなって生産量は低下した。また、町内にはアカマツの植栽された松茸山が多くあり、秋には松茸が収穫された。同五十年ごろまでは松茸狩りに町外からも観光客が訪れて賑わった。