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石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


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第五章 現代社会の展開と石部

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第二節 石部の発展とその特性

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内陸工業地域としての石部

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 工業化の端緒 石部町における工業化の端緒は戦時下の工場疎開にあった。昭和十九年三月に軍部の命令により旭計器工業株式会社が疎開してきた。大阪に本社をもつこの会社の生産部門は石部町公会堂を借用して操業を開始した。疎開後、新たな自社工場の建設が進められ、同二十一年五月に現在地に移転した。主要な生産品目は工業用圧力計や計測機器である。日本工業規格の制定により各種の圧力計や調整器が標準化され、それらの製造と技術開発が行われた。同三十五年七月当時、生産部門の従業員は151人(男113人、女38人)で、圧力計が月産12,000個製造された。製品は国鉄(現在JR)をはじめ電力・ガス会社など多方面に出荷され、また、台湾や東南アジアへも輸出されたようである。

 戦後直前に、もうひとつ疎開工場があった。同二十年六月に大阪より疎開した株式会社江州鍛造工業所である。工場の建設中に終戦を迎え、建設続行は困難を極めたが、同二十一年十月ようやく操業にこぎつけた。主たる生産品は精密型打鍛造品であり、具体的には自動車をはじめとする動力機の部品である。同三十五年九月当時、従業員165人が2~3交替制で月産約400tの製品を製造し、その出荷先は自動車や農機具の製造会社であった。

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 新国道と工場進出
 国土復興のために建設土木工事が活発に進められる中で、その工事材料が求められた。一方、石部町の主要道路は戦前から石部地域を東西に横断する旧東街道であったが、同二十七年十月に新国道(現国道一号線)が町北部の沖積低地を直線で東西を横断するように建設された。こうした全国的な状況と新国道の建設によって工場の進出が可能となった。また、県が工場誘致案内書を作成し、これを全国の大企業に配布して積極的に誘致運動を進めた。石部町もそれに依頼しつつ、独自に企業誘致を進めたこともあって本格的な工場進出をみることになった。

 まず、同二十八年四月に、日本スタッコ株式会社が進出した。工場は福岡県にもあり、町内で多く産出する石灰石を利用して、建築材料となる化粧塗料を生産した。当時の従業員は約20人で、日産10tに及び、出荷先は日本地域であった。操業が開始された同二十九年五月ごろにみられた工場での作業風景は次のように記されている。

 17~18人の工員がマスクをかけ、ふんまつのため前身真っ白になって作業に余念がない。工場の中央には魚形水雷を連想させるようなグロテスクな大きい粉砕機が勢いよく回転している。製品は一旦、自動的にヤグラ式の屋上貯蔵庫に運ばれ、随時、一定量(セメント袋同様)の紙袋に詰め込まれる(『町報』第24号)。

 次に、同二十九年十月に京阪コンクリート管や護岸用コンクリートブロックが生産された。これらは災害河川の復旧工事や農地改良の揚排水工事などの土木工事に用いられるものである。それに、名神高速道路や東海道新幹線に必要な建設資材を供給していた。同三十六年一月当時、従業員は約60人で、月産3,000tに達した。

 さらに昭和三十一年に入ると、中川ヒューム管株式会社滋賀工場(コンクリート製のヒューム管・集水管・曲管の製造、どう三十四年当時の従業員165人)と中央コンクリート株式会社(コンクリート製品およびセメント製品の製造、同三十四年当時の従業員145人)が進出した。

 これらの工場は交通上の利便性が高い国道一号線沿いに立地したり、あるいは、野洲川の砂利にも注目して野洲川河川敷近くに設けられたのである。

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 高速道路と工場進出
 同三十八年七月十五日に名神高速道路栗東インターチェンジが開設され、兵庫県尼崎市~滋賀県栗東町間が暫定的に開通し、ついで同四十年七月一日には愛知県小牧市まで総延長189.3kmが全通した。これによって京阪神地区と中京(名古屋)地区の工業地帯が高速道路でつながり、石部町もこれらの工業地帯との近接性が強まり、工場進出にも拍車がかかった。

 高速道路の建設が決定されると、石部町は精力的に工場誘致したため、まず同三十四年十一月に西日本精工株式会社(現日本精工株式会社)石部工場が竣工した。工場自体は同年十一月に研磨工場が、同三十五年三月に旋盤工場が完成して、量産体制に入った。設立以来、ローラーベアリング(軸受)の生産が行われている。これは家庭電化製品、自動車、鉄道車両のほか産業機械の回転部分に使用される部品である。同三十五年九月当時、従業員は職員10人、工員222人(男142人、女80人)と町内最大規模であった。現在では、従業員は700人以上に達し、隣接町村からの勤務者も数多い。

 続いて、同三十五年十二月に湖南工業株式会社が誘致された。同三十七年八月に操業を開始し、従業員60人で合繊加工(タイヤコード)製品を生産している。また、シーアイ化成株式会社が同三十八年十月から従業員260人をもって合成樹脂製品の製造に乗り出した。

 一方、国道一号線沿いに、金属製品やプラスチック製品の工場がどう四十五年ごろまでに多く設立された。同四十一年二月に日光化成株式会社が従業員140人でプラスチック積層品の生産を開始した。そして、そして、同四十二年四月、日本アーム株式会社が同四十五年六月操業を始め、従業員230人によりプラスチック製品の製造・出荷を行っている。

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 産業の発展
 事業所数を年次別にみると年々増加しており、同五十年には300ヶ所台に達した。そして、同六十一年には同三十五年の二倍以上の391ヶ所となり、同六十年の増加率(56/60)は11.1%で、県下の全市町村の中で第四位となった。大幅な増加を示した業種は、建設業や製造業、不動産業、それにサービス業である。特に同三十五年と同六十一年を対比した場合に、建設業(同三十五年の12倍)と製造業(同三十五年の約3.5倍)が顕著に事業所増加となっている(表82)。

 産業別従業者数に推移においても大幅に増加している。同三十八年まで1,000人台であった従業者数は、どう四十一年には2,909人と同三十五年のほぼ倍になった。そして、同四十七年には4,000人を突破し、同五十三年を除いて、着実な増加を示している。業種別にみた場合も、ほとんどの業種で増えている。その中で常に製造業が全体の60%以上を占めており、特に同四十四年には全体の約70%が製造業の従業者となった。

 このように、石部町においては同三十五年以降、特に同三十八年から四十七年に顕著な産業発展がみられ、製造業や建設業を中心にした地域の工業化が展開されたわけである。

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 製造業の成長
 次に、地域の工業化の中心となった製造業の成長過程についてみると、同三十七年には製造業の事業所12ヶ所、従業員1,180人であったが、同四十四人以降30ヶ所台となり、その後も急増して同四十七年に49ヶ所、2,511人に及んだ。翌年には50ヶ所と戦後最高になったのである。それ以降は、わずかながら減少していたが、同六十年代には再び増加に転じて、35ヶ所以上を安定的に推移している。事業所数を従業員規模別にみると、同三十八年の場合10人未満の事業所は9ヶ所、10人以上の事業所は10ヶ所であった。同四十七年になると、10人以上の事業所27ヶ所のうち22ヶ所は20人以上の従業員を雇用していた。この時期に町内の事業所は数の増加とともに、中規模以上の事業所が増し、事業所の規模拡大が進んだことがわかる。その後、事業所数は減少したが、4~9人の事業所と10~19人の事業所が全体の25%ずつを占めた。また、20~29人台・30~100以上の規模をもつ事業所は5~6ヶ所を維持しており、安定した状態になっている。製造業の事業所数を業種別(産業中分類別)にみると、調査対象業種22種のうち、町内には18業種の事業所があった。年次ごとにみると、町内の中心をなる製造業種別対象業種には変化がみられる。食料品製造業が同三十二年から四十七年ごろに、そして、木材・木製品製造業が同四十四年から五十三年に、繊維工業の事業所が同四十七年から五十年にかけて、それぞれ大きく増大して、製造業の中心になっている。同十七年以降は金属製品と一般機械・機器に関する製造業の事業所が大勢を占めた。同六十二年現在、金属製品、一般機械・機器、プラスチック製品、木材・木製品の製造業、および、窯業、鉄鋼業の事業所が主たるものになっている。

 次に、従業員数は同四十二年に2,000人を越えて、同五十年代後半以降2,500人前後を維持している。また、製造品出荷額(加工賃収入額と修理料収入額を含む)では、同四十三年に100億円を越え、同四十七年に200億円台となった。さらに、同四十九年には300億円に達し、どう五十三年に400億円に及んだ。そして、同五十四年から五十七年では500億円台を推移したが、それ以降は二年ごとに100億円ずつ増加して、同六十二年には817億円に上っている。

 町内の事業所は事業所数や従業員数、製造品出荷額をみる限り、同四十年ごろから五十年ごろにかけて急成長している。そして、オイル・ショックやドル・ショックなどといったさまざまな全国的な経済危機の影響を受けたものの、その後は事業所数40ヶ所前後、従業員数2,400人前後で安定した推移をしている。製造品出荷額は着実な増加を示し、どう五十年代の町内の製造業は安定した成長を遂げ、同六十年代には、再び大幅な成長の兆候がみられる。

 戦後、町内への工場進出と交通体系の整備によって他業種への就業機会が増加あいたために、農業は兼業化が著しく進行した。それとともに、農地以外の土地利用がはかられて、経営面積が小規模化したのである。こうして、石部町の農業はサラリーマンによる日曜農業としての傾向が強くなってきている。ただ、こうした趨勢の中で、同五十五年以降に専業農家が再生され、同三十五年より1.5ha以上の経営面積をもつ農家が維持されているのは注目すべきところである。これらの農業は水稲栽培をはじめ多角的な営農を行っているものと思われるが、兼業化・小規模化された地域農業の再編成が叫ばれている中で、新たな可能性を求めて展開している農家の存在がみられるのである。

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 農業の機械化
 戦後の農業が効率的に進められた要因のひとつとして、農業の動力化・機械化があげられる。昭和二十五年ごろは、農耕の主力は人力と畜力であった。農耕に際して、総農家378戸のうち、牛を使用した農家は370戸で、動力耕転機を使用した農家は2戸にすぎず、ほとんどが畜力を利用していたのである。

 同三十五年においても農作業の主力は畜力であったが、徐々に動力も取り入れられるようになった。同年には畜力のみ使用農家はゼロとなり、畜力と動力の併用農家が主流となった。また、別の統計によると、動力耕転機を使用した農家は個人所有の8戸、他の農家の耕転機を借用した農家25戸の計33戸で、それによる作業面積は水田11.9ha(前水田面積の約5.5%)、畑0.6ha(全畑地面積の約5%)にすぎなかった。本格的な機械化が始まったのは、表80で農用機械の所有台数を示したように同四十年以降である。同三十五年には発動機あるいは電動機・堂力脱穀機・動力籾摺機はかなり普及していた。同四十年には耕転機が165台となり、さらに、同四十五年には307台と飛躍的に増大したのである。こうして、耕起作業を中心とした農作業は牛などの畜量から耕転機やバインダーなどの動力機械へと転換された。同五十年になると、従来は人力による手作業であった田植作業や稲刈作業が動力田植機や自脱型コンバイン(もしくは、バインダー)によって機械化された。同五十五年には機械化がほぼ完了し、作業効率は著しく向上したが、同六十年現在では、飽和状態となり減少の兆候がみられる。