石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

500000000

石部頭首工(治水事業) 農耕改良(圃場整備事業) 教育設備拡充(教育推進事業) 街のにぎわい(商工業誘致推進)

近・現代と石部


505000000

第五章 現代社会の展開と石部

505020000

第二節 石部の発展とその特性

505020400

住宅都市としての石部

505020401
 町営住宅の建設 終戦当時、食糧難の時期には都市部からの流入者があったものの、その後、人口漸減の兆しが出ていた。これに対して、町当局は工場誘致とともに町営住宅の建設を検討し、人口の転出を回避し、新たな転入者を受け入れる態勢を整備することを考えたのである。

 昭和二十七年四月に国庫補助(長営住宅建設補助金)を得て、町は建設費320万円(10戸分)を同年度予算案に計上した。その手初めとして、字小池町大塚の600坪の用地に第一種木造住宅(各戸12.5坪)五戸が建設されることになり、同年十二月に竣工した。同じ時期に改築されていた国鉄石部駅舎も完成して、十二月十六日に両方の落成式が行われた。当日は石部町公民館で午前十時から町営住宅落成式が、午前十一時から石部駅落成式が、それぞれ挙行された後に、町内において各種の祝賀行事が開催されたのである。正午に町内各町の青年団や商工会による仮装行列が石部小学校を出発して沿道を賑わした。また、石部町公会堂で漫才や奇術、映画などの余興も行われた。第一回の入居を募集したところ、45人と多くの応募者があった。町条例にしたがって応募者を六種類に区分して公開抽選を行い、五人が決定された。大塚団地にはさらに同四十三年、18戸の住宅が増設された。

 その後も、町営住宅は同二十八年に仲町団地に10戸、さらに8戸が増設された。続いて、同二十九年に鵜の目団地8戸、同三十二年に殿城団地10戸、同三十五年に東谷団地15戸がそれぞれ建設され、総戸数は88戸に及んだ。

505020402
 公営住宅開発
 昭和三十六年以降は計画的に大規模な住宅開発が展開された。まず、同三十六年から三十八年にかけて東清水町に総面積11,120㎡に及ぶ宮の森団地が造成された。

 次に、同三十九年、東寺字長島に東寺団地が造成された。その後、東寺団地は断続的に七年にわたりさまざまな種類の住宅が合計112戸作られた。

 さらに、西寺地区の躍9,500㎡の土地に同四十五年五月より造成工事が進められた。この西寺団地は当初、甲賀郡開発事業団(甲賀郡内七町で各町の事業計画をもとにこれらを組み合わせて地域内の総合開発を中心)による町営住宅と滋賀県住宅供給公社の分譲住宅が建設されたが、同四十六年から町営住宅建設予定地の南半分には県営住宅が設けられることになった。町営住宅と県営住宅は二階建で一棟に六戸が入居できるものであった。まず、町営住宅は同四十五年から五年間に毎年二棟12戸ずつが建設されたのをはじめ、同五十四年までに17棟98戸が建設された。なお、これらの住宅の一戸あたりの面積は同四十八年に42.74㎡、同四十九年に46.17㎡、同五十年に49.61㎡と徐々に拡張され、狭少感を改善しようと努めている。特に同五十二年に建設された住宅から従来の2DKから3DKとなり、延面積も55/47㎡に広げられた。次に、県営住宅は同四十六年から三年間に9棟52戸が設けられた。他方、同団地造成当初より予定されていた滋賀県住宅供給公社の分譲住宅45区画は同四十五年より建設が進められた。

 以上のように、公営住宅建設は当初、人口流出の防止策としての意味が強かったが、高度経済成長期を迎えた時期には町内の誘致工場への就業者や京阪神地区への通勤者の住宅需要に対応するものになった。この需要に早急に対処するために、同二十七年以来、460戸あまりの公営住宅建設を着実に進めてきたわけである。こうした中で、初期に建築された受託は老朽化が進んだために、居住者に払い下げたり、改築工事を進めている。

505020403
 民間企業の宅地開発
 公営住宅に加えて、民間企業による宅地開発も積極的に行われた。当初、地元企業をはじめ数多くの企業が開発を進めてきたが、これらは比較的小規模なものであった。本格的な大規模開発は昭和四十年代になってからであった。大阪に本社をもつ東宝ランド株式会社および大倉開発株式会社が町内の丘陵地域の三ヶ所で宅地造成を開始した。地元企業も含めて、この二つの企業を中心に用地買収が行われ、宮の森ニュータウン(宮の森町)と宝来坂ニュータウン(宝来坂町)が同四十五年ごろに、岡出ニュータウン(岡出町)が同五十年ごろにそれぞれ造成を完了した。

 宮の森ニュータウンでは、東宝ランド株式会社が約70,000㎡を、宝来坂ニュータウンは東宝ランド株式会社と大倉開発株式会社を中心に地元企業も含めて約98,000㎡を、さらに、岡出ニュータウンにおいては東宝ランドと地元企業が約123,000㎡をそれぞれ買収し、合計292,000㎡に及ぶ大規模なものになった。開発地域は丘陵地のため、各ニュータウンともに元来、山林であったところが大半である。特に、宮の森ニュータウンと宝来坂ニュータウンでは登記上の地目はほとんど山林であった。当時、町内には多くのダンプカーが行き交い、造成地ではブルドーザーの音が鳴り響いた。

 造成後に公園や道路が設けられ、それらは企業から町に寄付され、町公園・町道となった。そして、水道給配水や側溝が施行され、家屋が建設されたのである。同四十五年より宝来坂ニュータウンで、同四十六年より宮の森ニュータウンで、どう五十年より岡出ニュータウンで、それぞれ入居が始まった。宮の森ニュータウンでは同五十二年から五十三年に入居のピークがあり、同六十三年末現在248戸である。宝来坂ニュータウンとほぼ同時期に多くの入居があって現在は291戸に及んでいる。岡出ニュータウンの場合も同五十三年の入居者数が最高になっており、それ以外の年も一定の入居がみられ、現在では170戸である。同六十三年十二月現在、これら三つのニュータウンへの入居個数は709戸にのぼり、町内の全戸数の約20%にあたっている。これら以外にも一戸建住宅は町内の企業はもとより、近隣市町や京都、大阪などの住宅会社によって活発に造成され、供給されてきた。同六十年代に入ると、県道バイパス沿線を中心に四階建アパート・マンションなど、多様な住宅が建設されている。